2008年5月13日 (火)

直感と科学的根拠

どうやら科学的根拠というのは神様らしい。

血液型とかゲーム脳など、仮説を信じる根拠として自分の直感に当てはまるか?あるいは科学的根拠があるか?の双方がある。

もし、自分の直感で信じていても科学的客観性がなければ、その直感を捨てるという、客観主義重視の考え方に触れた。

また自分の直感で信じられなくても、科学的客観性があれば、信じるという。

恋愛に喩えると、直感で好きでも、客観性がなければ嫌いになるし、直感で嫌いでも客観性があれば好きになれる、ということになろう。

恋愛も科学的根拠を求めますか?

果たして、こういう態度で世の中渡っていってうまくいくのでしょうか?

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2008年5月12日 (月)

なあなあで済ませるか?理屈で迫るか?

身の覚えのある仕事について、どういう態度を取るべきか葛藤している。

まあ仲間内だから、なあなあにしておこう。互助精神で融通して仲間に喜ばれるのだからこれ程うれしいことはないじゃないか。お互い様だ。いずれ返ってくるよ、と期待してそのまま放置しておくか?

そんな甘いものじゃない。ちゃんと類似する仕事とベンチマークして費用対効果を算出してこれだけ利益があるのだから1割ピンはねする。こちらは時間と金をかけて仕事しているのだから、割が合わない。

どっちを取るのだろうか?

年功序列だったら前者を取るだろうし、成果主義だったら後者を取るということになるが、どうもそう割り切れないのが困る。

役に立ちそうもないことを歯切れが悪い口調で一生懸命セールスするのも嫌だけど、大声で役に立ったんだから金遣せ、というのも憚れる。

どっちも嫌なことだ。

だからといって双方ともやらないわけには行かない。

折角研究してその副産物として成果が出たんだから声高々に主張しても悪くはないのだろう。ただ、一人でやっているから、難しいんだよね。主張してもしらんぷりされそうだし、味方をつけないとダメなんだよな。

でも一党独裁だから、一対その他になる。

成果主義といいながら、成果を認めたくないみたいだし、都合のいいところはなあなあで済ます。世の中そういうものなのだろう。

幾ら一人で獣道を行軍しても組織の論理には勝てない。

そういった中、どうやってうまく主張していくのか?

これが出来て初めて、仕事になる。

うまく説得していくしかないね。いろいろ比較して優れた点をアピールするなんて嫌味ったらしくて嫌なんだけど、ここでお人よしになっていたら、ただのいい人になるだけ。

それともいい人でいたほうがいいのだろうか?

場合によると悪い人にもなるのだけど。

お金使うのが下手だからそれでいいのかな。

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2008年5月11日 (日)

欲求と商売

自分の欲求を満たすために一生懸命になって、それを商売のネタにしようとしても難しいことに最近気付いてきた。

何故なんだろう?

それは、分配が出来ないからだろう。

欲求を満たすために、ところかまわずあらゆる分野に参入して、そのいいとこだけを適当に採用して、再構成して、やっほー!自分の欲求が満たせた。これをノウハウとして売り込めないかな?と画策するのだが、難しい。

まあこの欲求が、自分だけ、とか、極限られた人々、だけ満たすものならば、問題ない。その人だけに受けるのだから、影響は少ない。

しかし、これが万人の欲求を満たすものだったら話が違う。総取りになってしまう。

こうすると皆に嫌な顔をされる。

嫌な顔をされ不快になって、生き辛くなる。

新たなる欲求探しに奔走する羽目になる。

折角の発見がおじゃんになる。

大学の先生より一般人のほうが、高度な知識を見出したり創造しやすいという。

先生は、知識を分配するための事務処理を知識の処理と創造よりはるかに多くの時間を割かなくてはならない。一般人は、そういうことが要らなくて、問題や課題を見出せば、自分の欲求にしたがって、自由に情報を取捨選択できる。

大学人は、分配のために、役に立とうが無駄だろうが、感覚からずれようがずれまいが、情報を存在させ維持しなくてはならない。

一般人のほうが、賢くなるのは、当たり前。

だからといって一般人がその成果を用いて商売するとなると話は別。やはり成果を分解して、それぞれの所管組織にお伺いを立てて、商売の邪魔をしないように配慮が必要である。

この事務作業に莫大の時間とエネルギーを吸い取られるのだから、気分が萎えてくる。

やっても無駄、ということになる。せいぜい自己救済され、余計な出費が抑えられるだけ。

いわば縮小均衡に向かうものである。

ということで、

あらゆる知識をネットから収集して大学の先生より賢い一般人になりましょう!

なんていうのは、アマチュアリズムに限定されプロフェッショナルや拡大均衡にいたらないという意味で、ガセと思いますが、いかがでしょう?

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寒い週末

昨日と今日は、寒くて、なんだか頭がうまく働かないというか、変な感覚だった。

磁石のおかげで、不安はないんだけど、何が得る気も起こらないしやる気も起こらない。

昼から雨が止みそうだからゴルフの練習に行った。

身体が冷えているようで、球が当らない。感覚が途中で途切れてしまうような、生まれて初めての感覚だった。握っただけで、今まで経験したことないような感じがして、このあとどうすればいいのかパニックになる。

そういう時は、悔しがっても仕方がない、と諦めた。

冷やさないように、身体を締め付けるようなスパッツを着用すればいいのかも。

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2008年5月10日 (土)

悪人正機について

なんか自分がこう被害者意識を持つのは、悪人正機という発想があるがゆえと考えている。

何でもあり、何やってもいい、というからである。

身体と概念が分裂していようが、人にどう思われようが、とにかく、客観的科学的に証明されない限りやってもいい、ことから派生している。

得てして分別がない、人を騙しても良い、ということなのである。

何故人を騙すといけないのか、というのは、他人が嫌な思いをするから、というのが最たる理由だろうが、違うのである。騙しというのはいずればれて騙すことができなくなる。そうするともはや自分の存在価値がなくなってしまう。そういう不安に苛まれるからである。

これだけ嫌なことはない。過酷である。

それを善悪も付かない、といわれるが、こういう人々も救われる、というのだから、やってもOKよ、ということなのである。

自分が被害妄想になるのは、そういう営みを知らぬうちにやってしまって、しかも止められないからである。

無論、精神的にも肉体的にも消耗している。

このような状況を肯定するのが、悪人正機というものだろう。

一見、甘美に思えるが、一時的なその場しのぎ的な慰めであり、それを未来永劫続けるのはかえって過酷である。

だから優しいと思われるこの悪人正機も実は過酷なのである。

一種の撒き餌であり、それに引っかかるとあとあとひどい目にあう代物である。

とはいえ、身体と概念が分裂していることを苦痛だから悪と捉えるのが、私だが、別に平気で、酒やタバコで紛らわせばいいという人もいるし、もともとそういう概念を持ち得ないぐらいなんともない人もいる。

私は、そう理解しているのだが、怒られますかね?

推論を重ねると、このように解釈できる可能性を列挙したのだから、別にかまわんでしょう。

ご参考に、ということにて。

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2008年5月 9日 (金)

ブログには2,3行毎に空行が必要

隙間なくびっちり書かれたブログは読みづらい。少し読み続けると疲れてきて断念してしまう。記憶のバッファーがオーバフローしてしまうのだろう。

ブログの文章は、紙のものと違い、字だけではなく、電磁波やVOCという様々な刺激が入ってきて脳が逐次処理をしているから、文章の密度を粗くしないと読めない。

以前、ブログ同士で議論を戦わせていた相手の方は、空行を空けないでびっしり文章を書かれるので読めなかった。だからきちんと読んでください、と何度も怒られて、厭きられ、喧嘩別れになってしまった。

そんなびっしり書いて疲れませんか?

お若いから、そういう体力あるのでしょうけど、年を取るとそういうことに耐えられなくなってきます。

たぶん、別の文章を参照しながら書くので時間も掛かるし大変でしょう。

そうじゃなくて、何も参照しなくてもスラスラかけるよう内容に限定すれば、そんなびっしり詰めることもないでしょう。

参照しながら書くというのは、まだ充分自分の身体にアイディアがなじんでいないでしょう。

そういう文章は、読んでいて疲れますし、途中で止めてしまいますよ。

リズムが崩れますからね。

ボーカリストなのですから、リズム感は抜群でしょう。でしたら、もっと自分の身になじんでから文章をお書きになればいいじゃないですか?

私は、他の文章を横において、見ながら書いて、見ながら書いて、というように、ブログを書くことはしません。そうやって書くと記憶に残りませんし、あとで読み返そうとも思いません。

嫌々しんどい思いをして書いたものなんか読み返したくなりますか?

あくまで書いているときは陶酔しなくちゃダメですよ。

その陶酔感を思い返したくて読み返すのですからね。

少しづつ、小刻みに書いていきます。びっしり内容を詰め込む必要はないのですから。

そうやって書くと、ちゃんとしたエピソードになって、ひとつひとつ骨となり肉となって行きますよ。

一度に沢山欲張ると単なる文字列の羅列になって、記憶に残りませんし有意義な時間にならないでしょう。

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2008年5月 8日 (木)

騙すほうと騙されるほう

世の中、少数の騙すほうと大多数の騙される人々から成り立っているんじゃないのかと思って人に訊いてみると、うん、そうだよ、とあっさり言われてしまった。当たり前らしい。

どうも自分は、大多数の騙されるほうにいると思って、騙す連中に文句をたらたらと書いてきたが、どうもそれがはばかれるのではないかとこの一本調子にブレーキが掛かってきた。

何か、折角騙そうとしているのにそれを邪魔すると悪いんじゃないのか?

でも、不思議なことに私の書いている文章は、騙す側の人にしか理解されないようだ。多くの騙される側の人々にとって読みづらいらしい。すいすい読むことが難しいらしく理解されない様子だ。

つまり自分は騙す側だった、ということが判明した。

何か変だなあ。

あいつは騙す側にいるのに、騙される側にいると勘違いして頭おかしいんじゃないの?

ということだったのである。味方から出た弾が敵に当る前に自分に当っていて、それで文句を言っていた。その文句は、味方にしか通じない。

何であいつは、敵に塩を送るようなまねをするんだ?馬鹿じゃない、となるのだが、実際はそうでもない。

敵に塩を送れていない。理解されないのである。

文章のリズムが合わないらしく、敵にとって見れば暗号となる。解読不能なのである。

こっちは、味方を敵に思っていて、敵だと勘違いした味方に、お前ら、そんなことばればれじゃないか?馬鹿みたいだ、と一人白けていて、それをつらつらと表現したいたのだが、敵に通じないで味方に通じて、何だ、種明かしをするなよ、バカ!と思われていたに違いない。

でも通じないのだから別にいいじゃないか?

騙される方には行かないのだから。

と味方の敵を欺く方便を哄笑しても、なんら問題ないんじゃないの?

ともかく、味方の掟というものに気付かなかったのである。

味方なのに敵と勘違いして、一人不安になり、いつでも逃げ出せるように、非常事態にして蓄財して、味方の「宵越しの金は持たねえ」、という慣習に逆らっていた。

どうせあいつは金もっているのだからあげなくてもいいだろう、と今の処遇がある。こういうパターンは自分だけじゃなくて何人か知っている。

貰ったものは使わないとダメなんだね。

味方は、相互互助で何でも無料で情報開示して見返りを求めず、あくまで敵からふんだくる主義なのである。そういう風に制度化されているのである。味方から、ほらサービスしたんだから金遣せ、とはならないらしい。

自分を救済しようと努力して成果を出しても、味方は、ありがとよ、とあっさりタダでかっさらっていく一方敵からふんだくるべく画策しているものである。あくまで金は、騙される側の敵から頂くのである。そして貰ったら溜め込まないであっさり散財する。

誰に散財するの?もちろん味方にさ。金だけじゃなくて情報も。

こうやって富むはますます富み、貧しきはますます貧しくなる。

マタイの法則なのである。

こういう掟だったのだね、とつくづく今思う。

本来、組織とは、そのメンバの間ではお互いに無料で相互互助して、協力してメンバ外からお金を騙し取る、というものだが、勘違いして、役に立つと想定されることを実行して、メンバ外ではなくメンバの人間に金遣せ、となっていた。

とはいうものの、

え!本当なの?といまひとつ腑に落ちないで、しばらく騙される側にいるという被害者根性から抜けだせなさそう。

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2008年5月 7日 (水)

ご本家への墓参り

何となく腑に落ちる一帯に気を止めていた。通過すると何となく気分が落ち着いて気持ち良いエリアがあり、これまで何回か通り過ぎる機会があった。今回は、その駅に降りた。

そこには、母方の祖父の本家が住んでいる。小学生の頃、祖母に連れられて何回か墓参りした覚えもある。ご本家にもご挨拶に行ったこともある。

一時間に一本しかない列車から降りると、店は2,3件しか見えない、いわゆるど田舎といわれる。駅を挟んで岩山が近くに迫る谷間の集落である。でも気分は賑やかなのである。

30年前の記憶をたどりながら、お墓を目指した。当時用を催しトイレを借りたよろず屋は、どうなっているのか?ないようであるような気配だった。

線路沿いを歩いて、確か、左に曲がることを記憶していた。曲がってみたものの早かったらしい。そこを中学生らしき女の子が自転車で通り過ぎた。ああこういう人なんだ、と関心を持つと、相手もこちらを向いた。何となく吸い込まれるような感じがあった。

立て直すべくまた右に曲がり進むと、お社があった。春日神社とあった。

そこは入り口で参道をしばらく上っていくこと10分、集落全体を見渡す場所にお社があった。

見渡すと、田舎とはいえ、農業であれ他の産業であれ人を養える分、ぎっしり詰まっているように見えた。余っておらず充分満杯で住める場所には、程よい間隔で家屋が並んでいる。

脇に寄進者の名札立てがあり、一族の人がぱらぱらと10数人ぐらいか掛かっていた。やはりご本家はそこで生活されているのだと判った。

さてその神社の別の道を下っていくと、立派な鉄筋校舎が見えてきた。

墓は、木造校舎の裏手にあったことを思い出した。早速裏手に回り墓標を探し回った。

大きな本家の墓標がありそれを囲むように一族一人ひとりの墓標が複数ある。そういった一群が何箇所かある。何とか家、というのが数家あった。その姓名からこれまで出会った方々の体格や顔立ちを思い浮かべると何となく一つの共通点があった。

普段の生活やメディアを思い浮かべると、ああいう感じだ、というように。

少し奥まったところに、我が係累の墓標群があった。いつも参られている気配がして、一族はこの地で根を下ろしているのだなということが判った。

母方は、祖父母が京都に住んでいる関係でそちらに移した。戻そうと思えば、戻る余地は残されていた。

そこでしばらく佇んだ。

また、大陸に舞い戻ったような、筋肉の心地よい張りと締め付けを感じた。まだ昼前だというのに