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2007年8月31日 (金)

日本語は欠陥だらけ

日本を離れると、つくづく日本語って使いづらい言語だと感じる。言いにくいだけではなく、精神を安定させるのに苦労がいる。

それに比べて、英語も韓国語も多分、殆どの言語は、使いやすいと思う。

というのは適宜、丹田に力が篭るように実装されているからであろうと考える。

たとえば「ありがとうございます」においても「カムサムミダ」とか「サンクス」のほうがお腹に力が篭って相手に訴求力がある。分かり合いやすいのではないのか?

ありがとうございます、ではお腹に力が入らないから、わざわざ頭を同時に下げないと伝わらない。これだけでも相当不便である。

日本語は、お腹に力をこめる部分が少ないから、日本語だけで話したり考えたりすると気分が落ち込んだり元気が出なくて気が枯れてしまうことが頻繁である。

だから意識過剰にせかせか動き回るのだろう。悪いソフトウェアをインストールしているみたい。まあファームウェアともいえるだろうか?

何でも、努力、辛抱、根性であり、しごき、鍛錬、修行、と大げさになってしまう。更にヒトと一緒にいるとお互いお腹に力が入らないから話も通じないし気を遣うことが多く、できれば一緒に居たくないというのが本音となろう。

そういう状況で人生果敢無く無常で辛いから、文化活動や宗教活動が必要なのだろう。文化程度が高いというのも、それだけ日本語が欠陥だらけで補完しないと精神が安定しないからだろう。

演劇したり音楽を奏でたりジョークをいうのも精神が安定しないからであろう。歌舞伎、落語、漫才、歌謡、すべて日本語の欠陥のための補完である。しかもそういう芸人のルーツがお腹に力をこめる言語を操る地域というのも皮肉である。

意識過剰になって、色々なところから様々な刺激を輸入して、また自ら刺激を与えるような装置を造っている。自分たちの音楽がなくて、無理やり外国から輸入したり、その音楽を再生するものに躍起になる。こういう背景からものづくりに躍起になるのだが、勤勉とか努力家というように話を摩り替えるのである。

精神を安定するための産業がうじゃうじゃある。わざと不安にさせて仕事を造っているマッチポンプである。こういうのは後ろめたいから正直従事していると気が滅入ってくる。

こういうところに生き辛さがある。

こういう連中と付き合わなくてはいけないというのは辛いのは、自分だけではなく世界がそう思っているのではないのか?

こういうテーマで小林秀雄賞が授与されるのも、いよいよこういう問題にスポットが当たるということか?

そのままでは精神が安定しないから科学、哲学、文学、芸術に走ってしまう。安定していれば、必要ない。そういうものだと教えるのは、両親祖父母と近所の物知りおじさんだけだったが、いよいよ新潮社でも語られる日が来るのか?いい傾向だ。

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2007年8月30日 (木)

蛸壺への利益誘導

最近は、役割が細分化してその枠組みから出ようにも出られない蛸壺状態になりにっちもさっちもいかなくなって、気分が滅入ることが多くなった。正直こう思ったら負けである。その蛸壺を最大価値化してお金が還流するような仕掛けを結託して作るのが、最大の創造性であることに今更気付いたのである。

お互い結託して何を企むのか?もともと単純だったサービスを複雑にして難解にして、ちゃんと理解し損ねて失敗するともう一度やり直させて儲けようとするスタイルである。そういう業態があるのである。

利用者側とサービス提供側がある。利用者は、失敗すると再度提供側に同じようなサービスを請わなくてはならない。提供側がサービスを複雑にして利用者側を混乱に陥れて失敗を促す。そうすることによって自分たちが儲かるような仕組みになるのである。

利用者にわなを仕掛けて、まんまと嵌ったヒトからお金が吸い取られていくのである。

いわゆる開発費の高騰といわれるものカラクリである。

利用者側が提供者と結託して本当の利用者にわなを仕掛けて失敗すると提供者側にお金が行くと同時に提供者側にピンはねされるのである。

見事なビジネスモデルである。失敗させて出費をさせて自分たちに還流させる。うまく出来ている。成長が止まった蛸壺君たちが結託すると見事な、成長が望める。

いやあ、参ったなあ。

無論このモデルは長続きしないでいつか破綻をきたす。滅亡直前のにわか景気とでもいえるのか?

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2007年8月29日 (水)

科学的根拠とお金の問題

お客さんにお金を出して貰う意思決定をしていただくときに、科学的客観性を要求される場合と、されない場合があって不公平だな、と思うことがある。

自分には、ある現象について訴えたいことがある。話せば判っていただけることもあるが、やはり科学的客観性によって示そうと日々格闘している。

しかしながら、こういう営みが理不尽に思えてくる。

文化に対してかなりの予算が組まれるからである。文化の効用もよく判らない。

文化的理解が高いと良いみたいだが、そもそも文化の科学的根拠というものがあるのか?

と疑問に思うことがある。

これを美術館のキュレータの方にぶつけると嫌な顔をされる。

たとえば、ピカソやレオナルドダビンチの絵を見ることによって、免疫力が高まるか?うつ病が治るのか?癌が自然消滅していくというような、目に見えた効用があるのか?

自分にはないけど、モナリザの絵を長い時間見続けるような生活をして、病気知らずとか、そういう人がこの世の中に存在するのか?

もしそうだとしたら、何億円の価値があると理解できるが、ただ漠然と、天才とか有名だけでそのような値段がつくこと事体に、理不尽さを感じる。

そういう名画を沢山保有することによって、無病息災なのか?

あるいは絵画だけでもなく、音楽を聴くと本当に良いのか?

モーツァルトを聴いて癒されるというが本当か?強迫神経症の音楽としか思えないが、聞くことによって、癌にかかるリスクが減るとでも言うのか?

まったく文化の具体的な客観性を持った効用が判らない。こういうことを問うこと事体野暮なのか?触れてはいけないことなのか?と思う。

手間隙かけて客観性を担保しようとしている横目で、なんら根拠なく賞賛されている文化芸術を見るとやるせなさを感じる。

最近、科学者と名乗るヒトが、盛んに芸術の世界に踏み込んで評論しているが、そういう具体的な効用まで言っていない。何かしら凄いらしいのだが、その根拠が判らない。

そういう根拠を問わないから、芸術の世界のヒトにすんなり受け入れてもらえるのだろうか?

どうなんでしょうね?

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2007年8月28日 (火)

日本は自由な国

日本は色々な産業があるという意味ですこぶる自由といえるのではないか?自由に起業できる。だけど持続性が危ういから苦しいことが多いのではないか?自由にやらせる割には、後先のことを考えないで刹那的なところがある。

創造性とか起業とか、とかくこれまでにない新規産業を興隆させようとする気運が高い。これはつい先ごろまではやったベンチャーだけではなく、伝統的な基幹産業も含まれる。組織拡大のため新規業態が沢山創造されてきた。

しかし、持続性という意味で危ういことが多い。投資した割にはリターンが少なかったり、一生懸命苦労した割には、多くの人に受け入れてもらえないことが多くなってきた。

それを無理に使わせようとすることも多くなった。

欲求が尽きてきたから、新奇サービスや製品で成長は望めない。だから配分で差をつけようとする。儲かる人は儲かるし、そうでない人も出てくる。

これは、制度作りに参画したかしないかの差であろう。後先考えないでとにかく投資をして決済という事象を沢山作る。そこで意思決定する人にピンはねが入る仕組みになっている。とにかくお金を使わせて個人にバックマージンを還流させるという仕掛けで景気を維持してきた。

回収が危うい投資、感覚的に受け入れがたい、しようもない支出を促してとにかく仕事を作った。それだけではモチベーションが上がらないから、お金を出そうとする個人に還流させるのである。団体から個人へ資産が1割流れたことになる。その1割が全員ではなく意思決定する一部の人たちである。

ここで格差が生じるのである。つまり決済という制度上の裏をうまく利用しているのに過ぎない。将来の回収に見合う投資、本当に役に立つ投資をしているわけではなく、とにかく使えば、決めた人にバックマージンが入るのである。

だんだんそれが不味くなっていった。用途のないしょうもないものに投資して不良資産がかなり膨れ上がっている。その資産が次の富を生まない無用の長物となる。そういうものを抱えて次の回収が見込めない。企業業績が悪化する。表向きの配分は減少していく。そうは言いつつも一部の予算活用決定者は相変わらず儲かり続ける。

これが続くことによって、富める者は更に富み、貧しき者は更に貧しくなる。

これは、有効なサービスや製品に関与したかしないかの差ではなく、組織的制度的に予算を使えたか使えなかったかの差である。これは官民同じである。

ヒトビトの欲望が減る中、新奇製品やサービスによる成長が見込めないから、制度的なカラクリで儲けるしかない。これを誰も指摘しないから、ここまで来ている。

この世に役に立たない不良資産が山のように眠っていて、その不良資産の回収を見込もうとして認識的現象的には不可能な錬金術を強制されて、働く者は、更に貧しくなる。

不良資産を売りつける側が、ホワイトカラーエグゼンプション導入を目論むのは見え見えである。いくら時間をかけても成果が見込めないことをあらかじめ判っているからである。不良資産をいくら活用しても金は出てこないし富を生まない。残業しても成果が出ないからこの際、出さないような制度にしていくのである。

すると更に不良資産を買い込んでバックマージンを得ようとする人にとって有利に働くのである。こうやって、一部に富が集中するのである。巧妙的組織的詐欺。

いやあ、騙されましたねえ。

というか、笑える話である。

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インサイダーとは存在しうるのか?

インサイダー取引は、売買の意思決定に影響する情報を関係する組織に属していることによってすでに知っている者によって株式売買がなされることであるが、まったく組織に属せず、関係者ともなんらの関係も持たず、研究とシミュレーションによって訊かなくても判って売買する場合、当たらないという。

こうすると下手に組織や関係者に関わらないほうが得かもしれない。おおよその流れを知れば、どういう局面で誰がどのような意思決定をしてお金が動くのか予想できる。過去の事例を沢山集めれば判ってくるはず。

どうしても専門的な知識、高度の知識はその組織に属さないと判りえないというような暗黙の常識がはびこっているのではないのか?

健康や病気の知識は医学界、法律の世界は法曹界、薬の知識は、製薬業界、とブラックボックスになっている知識は、ある団体によって独占的支配的に所有されている、という常識があるが、もはやそういいきれなくなってきた。

だから、株価の上下に影響する情報を持っているのが、その関係者だけということは当てはまらない。過去の経験と常識があれば、誰にも判るということは有り得る。

だから、インサイダーとかアウトサイダーという区分けは意味を成さなくなり、インサイダー取引ということは、もはや存立し得ないのではないかと思われる。

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グローバリズムは山姥商法

グローバリズムが日本を駄目にしたという議論をよく耳にする。アメリカの主導で、世界が翻弄され、一極に富が集中するような仕掛けがされているから格差が生じるのだと。

アメリカが強大な軍事力を持っている。しかもアメリカ人は筋骨隆々で押しが強い。だから文句が言えないで無理やり仕方なく流されたり無理強いされている。

そういうことは、自分たちで制御できずグローバリズムの荒波に翻弄されるしかない。

そういった論調がよく聞かれる。

しかしこれは、あくまで恐い鬼を利用した山姥商法と同じである。恐怖にかこつけて自分たちが利用して金儲けを企んでいる。自分たちが表立つと角が立つから、責任を回避して全て山姥に押し付ける。そうやって自分の罪悪を軽減するのである。

意外とそういう流れは単純明快で、誰かの発言によって意思決定されお金が動きがちである。これによって企業業績の浮き沈みが生じて、何処に資金が集まるか見えてくる。これにしたがって投資すれば価値が上昇する。

これをちゃんと押えておけば、儲かりそう。

まあ自分では、そうできないもどかしさがある。そういう重要な意思決定する人からおいしい情報が流れてくるような人脈つくりをしてこなかったからだろう。そういう筋を知らないで意思決定するのは無謀であろう。知るべきことを知っていれば確実に儲かると考えている人は、この世に存在する、というのは確かだと思う。

自分がこうなるなと思っていても駄目で、決定権のある人が発言しないと動かない。それがどういうカラクリであるいはどのタイミングで発言するかを押さえる必要がある。直近の株価暴落にしろ、アメリカの低所得者層向けの住宅ローンが焦げ付いたという状況を誰かが発言することによって、実現されている。ライブドアの株が占い師によって上がったのと同様、誰かの発言やある組織の意思決定によって動く。それを押さえない限り、何をやっても無駄である。

勤労という倫理観を信じて汗水たらしてコツコツ働くのはいいけど、その成果が、ヒトビトに受け入れられて利用されないと虚しい。汗水たらして働くより、意思決定の連鎖を抑えたほうが確実に儲かる。

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2007年8月27日 (月)

日本は談合社会と言われるが...

果たしてそうなのか?談合する意識は強いのかもしれないけど、結果的に談合されていないのではないかと思われる。色々なセクションや組織がそれぞれ勝手にばらばらやっていると言う様子だ。その組織の中では、自分たちだけが知っていて、そのほかの人は知らないからやっても平気だ、という意識が強いのかもしれない。

お互い気持ちの通じない人同士が、厭々集まって気を配りながら運営している。そういう人が集まるとすかすかのシンボルだけしか享有されない。感覚の享有と言うものがない。感覚が享有されないと、結果的に機械的に振舞うものしか合意できない。

そういったものが世の中に溢れると生き辛い。

共同作業をすると止まったものか動きが機械的なものしか出来ない。とにかく仕事にするためには、そういうものを作り出すしかない。それぞれ役割を持って分担して山分けする。こういう考え方を気心の通じないヒトビトの間で享有すると、モノがあふれかえる。

日本の風景を見るとやたらものが多くて息が詰まる。建造物でも看板でも凝っているものの全体として見栄えが良くない。見ているとごちゃごちゃして疲れる。

それぞれが勝手に作っている。それぞれのモノ同士調和しない。それぞれ勝手にばらばら存在している。これでは疲れる。結果的に談合不足である。談合しても疲れて時間切れで、勝手にばらばらやり始めるのだろう。

韓国旅行をしてつくづく思った。確かにゴミは落ちてないし構造物はメンテナンスされている。しかし全体から見ると複雑で狭く感じる。

構造物だけはなく、知識全般もそうである。それぞれの組織が勝手にばらばらに知識を作って世の中に排泄している。生きているとどれが正しいのか判らない。本当のことは言われない。それぞれの組織の言うことに文句を言わない。判る人には判ると放置される。

お互い文句言うと嘘がばれるから触れないことにしている。判ることでも判らない振りをしている。そうやって食べている人が多い。だから気苦労が多くて生活がしんどくなるのだろう。

何時嘘がばれるか戦々恐々としている。こういうことでしか食べていけないというのも情けない。簡単なことでもわざと難しくしてわかりにくくする。それが愛情だと言う輩がいる。

そういうことに格闘することに時間をとられて、人間が生物として生きる機会が損逸されている。そうだから何時までたっても成長できずに大人になれない。くだらない情報に翻弄される。嫌だといっても逃れさせてくれない社会構造。生きていて虚しさと馬鹿らしさを覚えるのである。

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2007年8月26日 (日)

居心地の良さにお金を取らない

韓国を旅行して思ったことは、皆が心地良く生活できるような空間をつくる事を一番優先して考えている。意心地が良いとか悪いで価値に差をつけるようなことはしない。

宿でもいくら安い宿でもゆったりしている。広いし天井が高い。ここでの値段の違いは、設備が新しいか古いかだけである。日本のビジネスホテルみたいに安いと3畳しかない刑務所の独房のような宿はなかった。

列車でも同じである。高速鉄道でも通勤電車でも、空間は全て広くてゆったりである。ここに値段の差をつけていない。天井が高く、車幅が広くゆったりしていて、シートの足を伸ばせる幅もゆったりしている。

値段の違いは、止まる駅の多さ、速さで機能的な違いである。空間では、差をつけていない。

車内は、ムグンハという急行列車のほうが、高速鉄道KTXよりゆったりしている。遅い車種のほうがアコモデーションが良い。

韓国は、色彩や模様のような視覚的に差に拘りがなく、身体全体で感じるというヒトビトが多い。その場所に存在するだけで充分心地が良い、という土地柄であると思った。