日本語は欠陥だらけ
日本を離れると、つくづく日本語って使いづらい言語だと感じる。言いにくいだけではなく、精神を安定させるのに苦労がいる。
それに比べて、英語も韓国語も多分、殆どの言語は、使いやすいと思う。
というのは適宜、丹田に力が篭るように実装されているからであろうと考える。
たとえば「ありがとうございます」においても「カムサムミダ」とか「サンクス」のほうがお腹に力が篭って相手に訴求力がある。分かり合いやすいのではないのか?
ありがとうございます、ではお腹に力が入らないから、わざわざ頭を同時に下げないと伝わらない。これだけでも相当不便である。
日本語は、お腹に力をこめる部分が少ないから、日本語だけで話したり考えたりすると気分が落ち込んだり元気が出なくて気が枯れてしまうことが頻繁である。
だから意識過剰にせかせか動き回るのだろう。悪いソフトウェアをインストールしているみたい。まあファームウェアともいえるだろうか?
何でも、努力、辛抱、根性であり、しごき、鍛錬、修行、と大げさになってしまう。更にヒトと一緒にいるとお互いお腹に力が入らないから話も通じないし気を遣うことが多く、できれば一緒に居たくないというのが本音となろう。
そういう状況で人生果敢無く無常で辛いから、文化活動や宗教活動が必要なのだろう。文化程度が高いというのも、それだけ日本語が欠陥だらけで補完しないと精神が安定しないからだろう。
演劇したり音楽を奏でたりジョークをいうのも精神が安定しないからであろう。歌舞伎、落語、漫才、歌謡、すべて日本語の欠陥のための補完である。しかもそういう芸人のルーツがお腹に力をこめる言語を操る地域というのも皮肉である。
意識過剰になって、色々なところから様々な刺激を輸入して、また自ら刺激を与えるような装置を造っている。自分たちの音楽がなくて、無理やり外国から輸入したり、その音楽を再生するものに躍起になる。こういう背景からものづくりに躍起になるのだが、勤勉とか努力家というように話を摩り替えるのである。
精神を安定するための産業がうじゃうじゃある。わざと不安にさせて仕事を造っているマッチポンプである。こういうのは後ろめたいから正直従事していると気が滅入ってくる。
こういうところに生き辛さがある。
こういう連中と付き合わなくてはいけないというのは辛いのは、自分だけではなく世界がそう思っているのではないのか?
こういうテーマで小林秀雄賞が授与されるのも、いよいよこういう問題にスポットが当たるということか?
そのままでは精神が安定しないから科学、哲学、文学、芸術に走ってしまう。安定していれば、必要ない。そういうものだと教えるのは、両親祖父母と近所の物知りおじさんだけだったが、いよいよ新潮社でも語られる日が来るのか?いい傾向だ。
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