« 2007年8月 | トップページ | 2007年10月 »

2007年9月30日 (日)

鈍感な人々による意思決定

通常、若者のほうが高齢者より感覚は鋭敏だろう。内面から沸き起こる情動、あるいは外部からの刺激に敏感に反応して、あれこれ思い悩む。

それに比べ、加齢した者は、さほどの刺激に動じない。様々な経験に裏づけされて、刺激をうまくやり過ごす術を身に着けている。あるいは、感覚自体鈍くなってきているのかもしれない。

社会において何かしら異常が起こるとまず若者が反応して怒りだす。若者が多ければ多いほど、その度合いが強い。こういう若者の感覚が異常事態のセンサーとなっていて怒りによって修正が効くようになっているのではないか?

しかし、最近は高齢者が多くなって若者が少なくなったので、異常事態に怒りを示す若者が少なくなった。しかも若者は分断されていて一気にまとまって怒りのパワーが集積されにくくなっているのではないか?

だから、どんどん異常事態が膨らんでいっている。誰も怒る人がいない。歯止めが利かなくなっている。

老人天国である。老人によって意思決定される。

感覚が鈍くなっているから、刺激の強いものがどんどん許容され採用されていく。

子供はぎゃーぎゃー騒ぎ、若者はぼーっとして、壮年は一生懸命我慢して、老人は何でもない。

なんかやばそう。

人気blogランキングへ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

パルス沃

吐き気のする場、で怒りを覚えてつい書いてしまって、読書の皆様に大変申し訳ないことをしてしまったと反省した。

しかしこの問題は、私にとって切実な問題だ。生きた心地がしない。自己同一性が破れてしまうのだ。

生活環境でパルスに接する機会が多い。音でも電波でも静電気でも、ないところから急激に立ち上がり急激に減衰する信号である。ぴくぴく信号が立ち上がることをイメージしてください。

このパルス波について、安全基準が定められている。人体を熱によって破壊しないのに充分マージンをとった出力以下、刺激として、ぴりぴり来る電気刺激を感じないのに充分とった出力以下、という。これさえ守れば安全という。

WHOも総務省も安全だ!有害となる科学的根拠がない!といわれる。

そうかなあ?

これから科学的に有害性を示してみよう。熱的、刺激的とは、違う観点がある。

パワーが弱いパルスでも人体が受けると反応して神経活動するという知見である。

人体にパルス波が到着すると何かしら反応する。つまり人体の体表ないし深部の受容体がそのパルスを受け取って神経信号が脳の中枢に転送される。あまりにも弱ければ途中で減衰して到達しないだろう。

蚊が腕にラウンチした瞬間も後方から誰か人の気配がしたときもはっと感じる。そのとき神経活動がなされるのである。

一回のパルスがぴくっと発せられ、身体に届くと受けた受容体からぴくっと神経活動がパルス的になされる。そのパルスは一個だけならパワーそのものが小さいから意識に上らないことが多い。しかしこの分神経が消耗しているのである。

これが一回とか、間をおいて何回だったら、大丈夫である。なんら問題ない。

じゃあそれが、体表や身体の深部全体に、1分、10分、1時間、5時間と断続的に受けたらどうなるのか?パルス一個一個のパワーそのものは物理的に破壊する強度がない。しかしこれが長時間たくさん浴びると、そのつど神経は反応してしまう。

あまりにも数が多いので神経活動に必要な資源の補給が追いつかなくなる。人体の恒常に必要な神経活動が阻害されてしまうのである。

体表に多数のパルスを浴びて反応していると筋肉が硬直したような感じになり、呼吸するための神経活動が阻害されてしまう。

身体が酸素不足になって、あえぎというか吐き気を催して、大きく呼吸を取ろうとする防御反応が起こる。当初は何回かこれが怒るが、回数を経るにつれて弱くなり減衰してしまう。

すると身体全体が虚血状態になり、意識が朦朧としてくるのである。

一個一個のパルスの出力値は、充分小さいが、こういうパルスをたくさん長時間浴びてしまうと吐き気とともに意識朦朧としてしまう。こういう場を、吐き気がする場というのである。

その場から、逃れれば、一気に回復するのである。

こういう危険性をWHOも厚生労働省も総務省も気付いていない。恐ろしい話である。

人気blogランキングへ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

劣等感があるからこそ成長が望めるのか

劣等感が人を成長させるという見解を訊いた。劣等感にさいなまれる人にとって福音のように聞こえる。そういうものがあったほうがかえってプラスとなる。前向きにいこうという、もっともらしい。

果たしてそうなのか?

これは、半ば劣等感の存在を認めているようなものだ。

そもそも劣等感など存在してはならないものではないのか?

勉強が出来ない、人との対話が苦手だ、運動が得意でない、ことから派生する劣等感は、脊椎動物らしく生きていない証拠である。

自分と同種の固体から孤立して、異種と交わるがゆえに、拒絶反応を起こして、呼吸不全になり、認知不全や運動不全を起こすのである。

こういう孤立がなければ、劣等感を持ちようがない。ピアプレッシャーもありえない。

じゃあ、劣等感を持って悩んでいろいろ考えてその回避法の結論を得たとしよう。

自己同一性が維持できなかったから、という結論を。

それで、劣等感は人を成長させるとでもいえるのか?いやあ劣等感よありがとう、おかげで自己同一性の破れが判ったよ、ノーベル賞ものだ!

単に自己同一性に気付かない間抜けじゃないか?自分で考えてきてそう思った。

ノーベル賞とったって割に合わないよ。

同一性の欠如に気付いて、じゃあ何の得になるのだ?

馬鹿を見た!にすぎない。どうせ、誰かに持っていかれる。アメリカ大陸に住んでいたインディアンと同じ。コロンブスが発見するものだ。

こういう状況に怒りを覚えるのは私だけだろうか?

人気blogランキングへ

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2007年9月29日 (土)

多様性と一様性

一様性と多様性について考えてみた。

環境の変化の度合いが高いと、同じ性質を持つ個体群のほうが、それぞれ性質の異なった個体が集まった群より生き残る度合いが高いという。

確かに変化というか切羽詰っているときというのは、考えを統一させてその危機的状況を乗り越えるほうが生き残りやすいことは良くわかる。

思想統制されるときというのは、状況が危機的である。呉越同舟的というか、利害がまとまりやすいというのだろう。共通の目的に一致団結しているからだ。

しかし昨今は多様性の時代と喧伝される。それぞれの違いも認めようというのだ。

それにもかかわらず、外部環境の変化が激しい。というのは、多様性というものはそもそも概念的に細分化されて新規性が枯渇している状態を指すのだが、にもかかわらず、シンボリックな成果を求めようとする。この矛盾を抱えながら汲々と生活を送っていくと生殖意欲がなくなってくる。

だから多様性があるとき生き残りにくいというようなことは成り立つのであろう。

うまいこと言い当てているなあ。

多様性を推し謀りながら変化も激しくしているというのは滅びのサインである。

まずいんじゃないの。

これは社会制度的なアウシュビッツと同じである。発展性のない概念の中で新規な概念見出させるという圧力というのは、錬金術の勧めであり、息が苦しくなる。ガス室で殺されているという過程と同じなのである。

社会的に、アウシュビッツが要請されているのだろう。人口を減らしたいのか?

するとそういう多様性と急激な変化を仕掛けた胴元が、一様かつ単純な発想でまとまって生き延びていることに他ならないのである。

胴元と参加者と傍観者。

参加者は負け組みである。ずるずるとこういう状況に飲み込まれることを露知らずあほ面して滅びの境地に仕向けられたんだから、堪らんな。勝手にルールを決められてそうなってしまったという感が強い。ルールを決めるほうに参画しなかったつけである。

劣等感が成長と更なる発展を促すというが、こういうことに気付かないで踊らされるという劣等感はどうしようもない。これを知って成長が望めるのか?ルサンチマンしかない。

こういう劣等感があるときどうすればいいのでしょう?

胴元が生き延びて参加者と傍観者が滅びてしまう。

うまいことを示した論文だった。

人気blogランキングへ 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年9月28日 (金)

吐き気のする場

最近その場に行くと必ず吐き気がして、不思議とその場を離れると嘘のように吐き気が解消することが多い。

なんなんだろう?

こう正直に言えるのは、立場がないからか?

吐き気から逃れようとする行為がやたらと注目を浴びるのである。

立場があれば、吐き気がしようとどんな苦しかろうと押し黙って我慢する。

立場と吐き気が同居してしまう。吐き気抜きに立場を維持するのが困難である。

外の世界からは放置される治外法権。

誰も指摘しない。吐き気があったほうがましな世界。吐き気が生存の必要条件になる。

吐き気を受け入れるのが踏み絵である。

吐き気が仲間意識のかすがいになっている。

なんという世界なんだ。

吐き気から脱落してしまった。

人気blogランキングへ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年9月27日 (木)

困った多様性

最近多様性を認めようということが言われている。人それぞれ個性があるからそれぞれの良さを認めようじゃないか、となる。

しかし、すでに多様性は認められている。それぞれ組織がそれぞれの信念のもと活動している。組織が変われば信念が変わる。やおろずの神がいるのである。

組織のメンバは、割り当てられたひとつの信念を押し付けられる。ひとつにまとめないと組織が成立し得ない。

ここに信念対立が生じる。自分の信念と組織の信念が異なる。信じる宗教が違う。これでは組織では生きていけない。無理すると人格が分裂してしまう。

あらかじめ組織毎に信念を明示すべきではないか?

そうはいうものの、あまり信念を公表したがらない。負い目があるからだろう。そうはいっても生き延びるためには、やめるわけにはいかない。

だから騙されて参入して後悔することが多い。

こうならないように、あらかじめ社会に出る前に、それぞれの組織の宗教を明らかにすべきだろう。こういう組織はこういう感覚の傾向の人が集まり、よってこのような信念を持つことになる。

ただこうすると、まともな信念がないことに気付く。そうするとニートになるしかない。

あまりにも、自由気ままにさまざまな信念を許容してしまったのだ。だから信念は多様になったが、それぞれ取替えが利かず、つぶしが利かず、しかも息苦しくなってしまうことがある。よってその信念と自己同一化できない。だから詰まらなくて、生きた心地がしない。

人間の感覚に沿った信念だけを許容するような縛りがあれば、このような自己同一性の破綻はないはずである。

どうにかしてくれ!

人気blogランキングへ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年9月26日 (水)

福田「苦情係」政権誕生

福田康夫氏は、小泉氏や安倍氏とはタイプが違う人だなあと思った。派手さもないしただのお坊ちゃんでもなさそう。朴訥に何でもこなして、いろいろな人からの批判も適当に受け流しそう。訴えても無表情に軽く往なされそう。

世の中全体が物静かになりそう。

改革だの既得権の破壊だのにぎやかだった小泉政権、そこからいまいちとらえどころがなかった安倍政権、そしてしーんと押し黙ったような福田政権に突入した。

あれほど騒ぎ立てていろいろ変化があったようだが、うそのように静かになりそうだ。いろいろもめたけど、もうそれはなかったこととして封じ込まれそう。

そのにぎやかな時代の欺瞞とかうそとかごまかしが今となって皆気付いてきて、かなりというか不平不満が今にも爆発しそうな中、それはなかったことにしよう、水に流そう、というような雰囲気がありそうである。

福田氏にいくら怒りをぶつけても何も反応なさそう。そうやって過去を封じ込めようとするのだな。

あれほど喧伝された創造性とか成果主義も、新規ビジネス創造や人類の福祉に役に立つ技術開発ではなく、所詮、既得権を如何に死守しつつ権益拡大を謀るか、決済構造を複雑にして一部の決済意思決定者にピンはねが還流することに過ぎなかった。

これからこういう不満が出てこようとするときに、タイミングよく福田氏が登場してきた。どんな罵倒でも、顔を真っ赤にしつつも耐えて、耐えて、惚けて受け流す。

苦情を申し立てても、こちらのハイテンションにまともに取り合わず低いテンションで話の焦点をずらしてうまく交わす役所の苦情係みたいな様子である。

小泉さんも安倍さんもそういう苦情係的なキャラは持ち得ない。そこで安倍さんを病人にしたてて急遽、福田さんに交代したのだろう。

このブログでも、随分不平不満を述べてきたけど、ちゃんと読まれていて政権交代の契機になっているのではないかと思うと、なんとなく滑稽だなあ。

テンションが下がったシーンとした世の中になるのか?

人気blogランキングへ 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年9月25日 (火)

12歳のタイガー・ウッズ

日記は、当日経験したことより2,3日前の出来事のほうが書き易い。

おととい久しぶりにゴルフの打ちっぱなしに行った。打席は、河川敷のオープンスペースになっていて、常連さんたちと顔なじみになる。みんなが、大きな声で自分の打ち方をああだ、こうだ、と披露される。カラオケみたいだ。ここに通い始めたころは、皆の言うことをまじめに訊いていたが、最近は面倒になってきた。

そこにプロがいた。彼と知り合って5年ぐらいになる。たくさんの弟子を周りにはべらして稽古をつけていた。

どうもお久しぶりですと、挨拶をすると、「お兄さん最近調子はどうだい?うまくなった?」と声をかけていただいた。

いつも簡単そうに素晴らしい球筋を打たれる割に、握り方とか、クラブの挙げ方とか、腕の返し方とか、フォローの取り方とか、細かいことを散々言われてきた。まともに感心していたらすべてプロの術中にはまってしまうので、別の手を考えた。

「いやあ、難しいですね、でも何かしらこつをつかめば簡単なのでしょう。今は判りませんけど、判ったら、なんだあ、こんなことかぁ、とあきれるのでしょう」、と張ったりかまして、おちょくるように返した。

「いやあ、ゴルフはそんな簡単じゃないよ。いつも平らなところばかりで打てない。前下がりもあるし、後ろ下がりもある。体調もあるし、天気も違うし、風の吹き方も違う。気分も変わるし、相手によっても変わる。一言では言い切れないぐらい複雑で難しいんだ」。

「タイガーでも、5アンダー、7アンダーの日もあれば、5オーバーのときもある。あれほどのプロだって悩んでいる。簡単なわけないだろう」、と畳み掛けられた。

ここでそのまま引き下がってはいられない。

「いやあ、前下がりでも後ろ下がりでも、雨が降ろうと風が吹こうと、どんなときでも共通したひとつのコツがあるのでしょう。プロもいくら悪くても10オーバーぐらいで抑えるのだから、そう抑えられる何かのコツがあるはずですよ。

タイガーウッズは12歳の頃からシングルプレーヤーなのですから、12歳でも教えられれば判るような単純なことでしょう。いくら毎日やったとしても12歳で判ることなのですから、気づけば簡単なはずでしょう」。

「まあなあ、一人でそういうのを見つけるのは大変だからレッスンを受けるんだよ」。