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2007年10月31日 (水)

才能がないねえ

こういわれると絶望感に駆られる。実際そうだった。

しかし実は違うのである。才能がないね、という指摘は希望の星なのである。

才能とは、判る人には判る能力である。わかれば簡単なものである。

ある意識のてこを見出せば後はちょろいものである。

才能は美しい。きれいなものだ。長い説明は要らない。

要するに才能がないということは、簡単なことが判っていないことになる。

ある人は、才能がないことをあからさまに言ったりそういう見下したような態度を示すが、重要なヒントを示してくれている。わかれば簡単。

あれこれ親切に複雑な能書きを垂れる連中より、あっさり才能がないね!と切られたほうが良い。ちゃんと探せ!というメッセージである。

どうやったら見つかるかの問題。才能は探索するものである。

芸術、音楽でも絵画でも才能が物を言う。だからやさしいのである。

意識のてこを見出せば、後は簡単なのである。

探索するには、俗にまみれてはいけない。感覚が鈍る。良いタイミングで感受できない。

探索にならない。記憶に残らないのである。エピソードにならない。

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表現者と流通者

表現者の卵が流通者に自分の作品を見せる。その作品は、バインダーに綴じられている。表現者は、ぱらぱらページをめくる流通者の一挙一動に固まっている。どう思ってくれるのだろうか?気に入ってくれるのかなあ?不安な瞳がうるうるしていた。

デザインとしてならいいんじゃない。

そっけない。というかページをめくるときのせわしなさ。

引き出しにしまって置きたいわねえ。

何を言われたのか今は覚えていないけど、私は、厳しいですねえ、とうなってしまった。

すると彼女は、輪をかけて、ずっと見入らせるものじゃないと、何回も見てしまいたいようなものじゃないと、と畳み掛けた。

これじゃあ、一度っきり引き出しにしまったままだわ。

白雪姫じゃないか?

表現者の卵は、視覚的表現より聴覚的表現のほうが向いているのではないか。

換気の悪いアトリエでシックハウスになりつつ描いたものにオーラがない。

もっと換気を良くするか、あるいは、言葉とか音楽で表現されたほうがいいのではないかと思った。

もっと、毒がないとねえ、と思った。

その思いが通じたのか、卵は、目を背けて逃げてしまった。

私は、デザインとか雑誌とか色々やったけど、あるときサポートすることを決心した。自分で創造するより、好きな人に自分の思い通りに創造して欲しいと思った。

流通者と彼女が育て上げた表現者は、物腰といい顔が似ている。ミラーニューロン。

お互い好きで、好きでたまらなかったのだろう。そういうエネルギーが畳み掛けて結実したのか。

卵は彼女に振られたのか。

表現者と流通者とは恋人関係なのだろう。

私が、厳しいですね、と声をはさむと彼女の声が大きくなっていった。ウワーッと強い視線を投げかけられて圧倒され、思わずはにかんでしまった。

よし、今度、会うときは何かを持っていこう。便器でもペットボトルでも彼女にはいって手渡してみよう。

アーティストになるには、男でも女でもとにかく欲求をとことん満たしてくれる相手を見出してつるまないといけないのかもしれない。

アーティストは欲望に走ったら終わりである。

自分にかけがえがない欲求を自覚しなければならないだろう。

アトリエでシックハウスになってしまうと欲望が膨らむだけである。

これがアートといえようか?

いえる場合もあるかもしれないけど、いまいちぴんとこない。

まず自分の欲求を見出すというか開放することを教えるべきではないのかと思う。見ていると欲望に走っているからダメなんじゃないの。

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2007年10月30日 (火)

自分が何者であっても幸せになること

どんなブスでも醜くても幸福に生きられる極意が欲しいらしい。

どのような状況でも幸せを掴むという普遍性があるということ。

そういうのがあるのかな?

苦しくても幸せだ、なんて思えない。

苦しみには何かの原因があってそれを解消する方法を見出すことに賭けてきた。

やはりむつかるものだ。

苦しみがあればその苦しみをそのまま受容して良しとするのか?

シックハウスがそんなにいいものなのか?

嫌だろう。そういう状態が続くのは耐えられない。

脳は化学反応によって働く。

それを邪魔するものを突き止めればいいじゃないか。

劣等感の存在を認めていいものなのか?

本来そんなものはありえないはずだ。

近代がもたらしたものに過ぎない。

中世の人に劣等感はありえない。

劣等感は近代の所産。非人情をもたらした化学物質によって劣等感はもたらされた。

そもそも劣等感の発端って、教室のくさいにおいだろう。あれで気分が滅入っちゃうんだよね。意気消沈して元気がなくなる。うじうじ考えてしまってどんどん自信がなくなっていく。

自己解体と劣等感の生成である。

そんなくさいものから派生する劣等感がいいものなのか?

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2007年10月29日 (月)

お互い悪い奴

ちょっとそれは悪いんじゃないのと思っている方から、本当に悪い奴だと云われた。

お互い、自己同一性が担保されるか、存在そのものが担保されるかで葛藤している様子だ。

自己同一性が保障されなくては生きていても虚しいという立場と保障されていなくても生きていることに意義があるという立場。

大きく2つに分かれるようだ。

自己同一性は欲求さえ満たせば担保される。欲求を満たさないと欲望に走る。

欲求が満たされなくても生きていれば良いと言うところから欲望が生まれる。

欲求さえ満たせば良いと言う立場と際限ない欲望を追及する立場。

前者は、反知性、後者は知性といわれる。

この葛藤の落とし所を見出すのが、目下の仕事となろう。

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2007年10月28日 (日)

土地の所有権と概念の所有権

自分に土地があれば、その土地で農業を営もうが、ビルを建ててオフィスにしたりマンションを建てて賃貸しても自由である。もし何人か子供が出来て、相続するとき人数分お互い文句が出ないように分割する。

アメリカ西部開拓史の頃は、ヨーロッパ大陸からアメリカ大陸に乗り込んで、ある徒党を組んだ連中がインディアンを駆逐して、土地や財宝を互い山分けする。

分配されたものはお互い干渉したり手を付けたりしないというのが原則だ。

そうやって喧嘩が起こらないようにする。

翻って、概念はどうか?

特に科学的概念、医学的概念。

誰か先駆者が新しい概念を発見してそこにお弟子さんが集って、更に概念が細分化されていく。当初というか概念ツリーのトップは、感覚的に理解できるものだが、末端に行けば行くほど、論理の羅列となりつつある。感覚的に把握できないというか意味を成さないので勝手にルールを作って概念の羅列を創造する。

土地と同じように、細分化された概念は、お互い口出ししないし知らん振り、無関心を装う。

自分の宛がわれた概念の範囲内で論理の羅列を展開するのである。

医学的概念は、身体を細分化して領分を作る。内科、外科、神経科、精神科、耳鼻咽喉科、泌尿器科、眼科、歯科、アレルギー科と分かれる。外科でも身体の部分によって分かれる。

お互い領分の侵さない様子だ。それぞれの科に赴いて、頭痛がすれば頭痛薬、不安になれば精神安定剤、とんちのように反射的である。

身体からそれぞれの臓器が解剖され、その臓器だけで完結させている。

それぞれの臓器が独立して勝手に生きているという発想である。これじゃあゾンビである。

総合科というものがない。体の不具合を事細かに聞き取って根本原因を探り、対処法を建サルする。こうやると医師と患者の依存関係がすぐ立ち消えるから病院経営として成り立たないのだろう。

しかもお互いの領分を侵害してしまい共存できにくくなる。組織の論理というものだ。

だから総合科は自分で創るしかない。自己責任ということになる。

社会全体が、概念の底ばかりに拘束されて、総合的な知識体系を獲得する暇と金がない。自分の専門領域以外は、すべてブラックボックス他人任せ。そういうことでお金を使わせようとする社会風潮があるのである。

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何故、ゲームが嫌いか?

ゲーム脳は、黒だと思い込んでいる。

ビデオゲームの場合、画面を通じて様々な問いというような刺激が発せられて、制限された時間内にしかるべき応答しなくてはならない。シューティングゲームは、敵が現れてすばやくミサイルを撃ったり逃げないとゲームオーバーになってしまう。

いかに続けさせることが出来るかに夢中になる。そうやるとあっという間に時間が経って、気付いてみると頭がぼーっとして倦怠感を伴った疲れを催している。

もしゲームの時間展開が速すぎたら誰もついていけないし、遅かったら誰でもクリアできて面白くない。

だから適切な展開の速さが設定される。

ゲームが機能的に動作するかテストするために製作側の誰かはすべてクリアできる。最初から誰かはクリアできる。そうしないと製品とならない。

ここで問題なのが、ある人にはその展開についていってクリアできてある人にとってはついていけないのである。

ゲームは万人に同一の時間内で操作を強要する。こまめにボタンを押す操作をうまくやらないと次に進めないのである。そういうこまめな運動でも充分呼吸できて身体を維持できる人もいれば出来ない人もいる。

事細かに指を動かす運動は無酸素運動である。

短距離走とか、ウェイトトレーニングも同じく無酸素運動であるが、激しい運動なので少しやったら長く休憩を入れる。

しかし細かな指使いは、さほど肉体的疲労感がないので、知らず知らずのうちに休まずに長時間続けてしまう。これが身体の恒常性維持にとってよろしくないのである。

私の場合は、身体が大きいので、そのような細かい操作をすばやくやっていると呼吸不足になっていらいらしてジョイスティックを床に投げ付けたくなる衝動に駆られる。

そういう落とし穴に気付かずに続けるのは馬鹿みたいに思えるのである。

これはビデオゲームに限ったことではない。学校でも仕事でも同じである。先生というゲーム機がいて生徒にある時間内に操作を強要してその出来の良し悪しを決める。テストというのではなく、先生の講義についていっているのである。

先生の話が聞き取りやすい人もいれば聞き取りにくい人もいる。これは神経学的な制約からくる。先生の話が自分にとってこまめな口の動かし方ならば、自分もそれを真似して訊くことになるが息が詰まっていらいらしてぼーっとしてくる。

先生の話だけではない。教室に立ち込めるにおいも同じである。床のワックスのにおい、机のにおい、先生の香水やポマードのにおい、油粘土のにおい、赤ペンのにおい、印刷物のにおい、誰かが給食を机の中に隠してそのまま腐ってしまった残飯のにおい、そういうものが複合的に入ってくる。

これに耐えられるか耐えられないかである。生理的に耐えられれば優等生、耐えられなければ劣等生である。

会社生活においても然りである。

上司の言うことがすんなり耳に入るか、職場がちゃんと換気されているか、で変わってくる。OA機器から発する有機揮発物質、低周波音、無線、これに耐えられれば勝ち組、耐えられなければ負け組である。

勝ち組にならんとひたすら耐え、薬漬けになるケースも垣間見られる。酒、煙草、精神安定剤、もろもろである。閾値以下の人はドーピングで頑張ってもらおうというのである。そこに仕掛けられた見えない落とし穴というかマッチポンプがあるわけである。

様々な生理的特性の人を一緒くたに集めて、閾値以上の人だけ耐えられるような環境というか強制力が見えにくい形で自分たちにのしかかるのである。

ゲーム、学校、職場。

すべてにおいて生理的制約という個別性が担保されなくなっているのである。

判る人から見れば、身体とか生理的な制約のために最初からゲームに参加することは無理だというのに、努力、辛抱、根性で参加させてひどい目にあわせる。

ひどい目にあっていても、答えをすぐに出さないで小出しにする。

だから嫌なんですよ。

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アマチュアゴルファーと病人

今日も多摩川河川敷の練習場で球を打ってきた。

この前つかんだコツがどうやら本物じゃないかと思ってきた。

球を打つときの不安感が少なくなったこと、球を捉え方、打球感、双曲線を描くような球筋、ずいぶん進歩してきたな、と思う。

これまでは、開眼したな、と嬉しく思っても、2週間続かない。駄目になって別の打ち方を模索することになる。これの繰り返しだった。

しかし今回は、長続きしている。コツがだんだんと定着している様子だ。

どうやらクラブでボールを打つという行為の極基本中の基本だろうと考えられるのである。

このコツは、文章にすると簡単である。

右利きの人ならば、クラブを振り上げるときは、腕一本で、切り返すタイミングで左手をぎゅっと握り始めると同時に振り下ろす。

これは、判らなかったというか誰も教えてくれなかった。あまりゴルフ雑誌とか教本を読むわけではないが、そう書いたのを見かけなった。

河川敷では、来場者がお互い顔見知りになりサロンとなる。皆でああだこうだとゴルフ談義に花を咲かせる。私は若い方だから色々なおじさんたちにあれこれアドバイスされたけど、あのコツは言われなかった。

大体、軸を作れとか、体を使わないで腕で振れとか、肩を廻せ、腕で振り上げるな、というようなことばかりだった。

私もこれらのことを意識したがぜんぜんうまくいかなかった。

おまけにうまくなるには、何百球もひたすら打つだけ、とか言われた。プロは毎日それぐらい打っている。そうしないとうまくなれるわけない。とか言われた。でもそのおじさんは、そのコツをつかんでいなかった。

プロになる人は、子供の頃にあのコツを仕込まれるらしい。それで大体8割方終わるのである。高速道路なのである。後の2割ひたすら練習して、べたピンに付ける確率、パットが入る確率を上げていく。プロはそこで差がつくらしい。

8割の大筋を2割の時間で見つけて、2割を8割の時間を使ってこつこつ励む。

2割の詰めが難しい。

多くの人は誤解しているのかもしれない。最初の8割を習得したり忘れないようにするのに8割の死に物狂いの練習をしていると考えているのではないか。実は、2割の時間で済むようなことだったのだ。

アマチュアゴルファーは、ゴルフの8割を占めるような大筋を2割の時間で習得できないような空気に支配される。それがあの練習場の空気である。

大筋を掴まないと幾ら努力してもうまくいかない。病気に罹っている。

病気とは、ゴルフ中毒のことをさすと思われるが少し違う。なかなかうまくいかないから中毒になるということもあるが、基本的なコツを棚上げした上で周辺的などうでも良いコツを取り入れてうまくいかない状態である。

その練習場にもそのコツを判っていらっしゃるお医者様が何人かいらっしゃるが、軸を作るとか、クラブの軌道をこう作るのだとか、スイングを分解して患者さんたちを治療しているのである。

医学上の医者が頭痛を訴えると頭痛薬を処方してくれるのと同じ。換気を良くしろとは言わない。

私も長いこと患者になって先生が治療してくれた。かかりつけの医者になっているのである。

私は、しばらくゴルフをやらないでいた。その代わりに神経科学とか海岸歩きをしていたが、これが大きかった。神経の仕組みを勉強したおかげで判ってきたといえる。

腕を握ると疲れる。疲れると不安になる。疲れを回復させるにはある時間がかかる。疲労と回復の時間間隔を考慮に入れること、力を入れるにはその前に充分休息が必要である、という知見を得た。

ひとつのことをやるとあるサロンに入るが、そのサロンに入り浸りだとアイディアが煮詰まって進歩が止まってしまう。

最近またそのサロンに戻ってきてニヤニヤして、もうおじさんたちのことは聞きません、と拒否している。あのコツで打つことを披露すると、いやいやまだ軸がぶれているねえ、といわれたが、別にいですよ、と開き直った。軸がぶれないように意識したって軸はぶれてしまう。安心して球を捉えることが先決である。

他の人がそのコツに従って打っていないのを見るといらいらしてきてつい言いたくなるが、自分で試行錯誤する楽しみを奪ってしまうというか、ねたばれになってしまうので、そのコツを知っていそうな人だけに言うことにしよう。

タイガーウッズは、そのコツを親爺に教わって幼稚園のときにマスターしたんだろう。

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