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2007年11月30日 (金)

逆説的表現

表現者について考えている。

表現とは、まず何かしら自分の主張を肯定することから始まる。

自分が正しい。だから主張するのである。

話題も選択されているのである。正しいと思う話題が選ばれるのである。

すると選ばなかった領域は、いわば否定している。無関心かあるいは棚上げしたいからあえて表現しない。選択された概念に相反する概念が付随することは多い。

例えば欲望を説く場合、欲求については出てこない。ということは欲求を否定しているかあるあるいは棚上げしている。

相反する2つの概念の一方を選択的に表現するということは、それそのものを肯定しているように見える。しかし違ったのだ。

表現で落とされたいわば棚上げした概念を肯定しているのである。あえて隠蔽することによって肯定している。

欲望する脳とは、いわば欲求できない脳。欲望なんかしたくないんだけどさ、でも欲求は難しいんだよね。でも欲求を満たしたいな、ということを切望していることに他ならないのであった。

どうも表現が意識的であり客観的平坦化均質化していると違和感を覚えて批判していたのだが、実は、平坦化された表現の中に平坦そのものを否定していることが浮かび上がるのである。

ぎこちなく欲望を説くと、欲望するとぎこちなくなることを表現しているのである。ほめ殺しである。欲望する脳といいながら欲望する脳を茶化している。欲望をまじめに説く滑稽でぎこちなくなる。そういう文章だった。これこそ表現というものなのか?

言い訳は許されないらしいが、言い訳もくそもない。

笑えるなあ。

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お叱り

どうも私のような表現はダメらしい。

この欲望の時代に欲求を満たしたいなんて言っていると置いてきぼり食らう。

いかに欲求からかけ離れたものを訴求するかが今日一番ホットな話題である。

いわゆる錬金術である。

皆これを知りたがっている。

だからそういう本が売れる。

欲望が不可欠である。

身体なんか鳴らしていると、狭い世界しか体験できないとか、深遠さに触れることが出来ないとか、浅くて狭いものではいけないらしい。

深くて広くても繰り返すと陳腐になるんだけど、そうはさせないというのが欲望なんだ。

欲求を断ち切るためには神経をぶった切らないとダメなんでしょうね。

いいとこのお嬢様は、欲求を満たしていればいいのだけど、なかなかそうはいかないのがこの世の中。欲望を追及させるのが真の教育じゃないのか?

お嬢様が欲求に走ると表情にずれがあって萌えてくる。

教育とは、自分が欲求を満たしながら、いかに他者を欲望の淵に陥れさせるか?の方法を仕込むことじゃないのか?

だから欲望を説く表現は人を養う力がある。これこそ表現者である。欲求を発散させることは表現とは言わないのである。

人を養っている表現にどうもしっくり来ないなあ、と寂しく思っていたが、こういうことだったのだ。

どうなんだろうなあ?

世の中このまま欲望が続くのか?欲求に落ち着くのか?

欲求を満たすとパイが小さくなる。

自分の生きるチャンスを狭めることなんだろうな。

表で欲望、裏で欲求、こうやって生きていけばいいのでしょう。

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2007年11月29日 (木)

欲望できない脳

欲望する脳とは言うものの、どうやら欲望には限界があると思われる。欲求は繰り返し来ても飽きないのだが、欲望は繰り返すと飽きる。だから常に新規の欲望の種を見出すことに駆られるが、次第にコモディティーになってくる。新規だけど新奇でなくなる。

単なる記号の組み合わせとか羅列に過ぎなくなる。

そうすると、いかに欲求を満たすかという興味に転じてくるのである。

欲求を満たせば幸せじゃないか。食う寝る動くの繰り返し。これをいかに心地よくするかである。

最近は、色々な不定愁訴でその欲求を感じることが出来にくくなっている。

だから新しい欲望というのは、不定愁訴をなくして欲求の原点に戻ることである。

簡単なようで簡単ではない。

内田先生の研究室志望をする学生の中にファッションを研究したいという動機で応募してくる学生がひっきりなしだが、落とすらしい。欲望に目がくらむようじゃ俺の弟子になる資格はない!との。ことらしい

しかし最近のファッションへの捉え方が変化しているらしい。

どうしてファッションに拘わる必要があるのか?

という問題意識を持った学生が出てきたという。

こういう学生は大歓迎らしい。

学生の頃からあくなき欲望に対する疑いの目を持つ、というのは素晴らしいことなのか?

私なんか欲求を捨てて欲望に走った覚えがあって、最近また欲望に戻っている。

中学生の頃までは主観的本能的、主観的に生きて高校生から30代半ばまで客観と理性と欲望に生きていた。踊らされましたね。学校教育をはじめとしたメディアに強く影響を受けたな。

ダメなんだね。これは両親祖父母近所の物知りおじさんからしか学べない。

そういう学生がちゃんといるということなのか?

いいことじゃないですか。

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2007年11月28日 (水)

詳細化へのモチベーション

自分の問題が解決されたらもはや追求する意欲がなくなる。

これからどうやってモチベーションを向上させるのか?

今まで判った知見を更に詳細化して何の意味があるのか?

研究のルールがあるようだが、いちいちやっていくことの興味がない。単に置き換えているだけ。

肝心の問題解決にならない。

粒度が細かすぎても意識で制御不可能である。

色々判ったのはいいけど、その代わりに社会との繋がりを持てなかったなあ。

ほとんどの人は、問題解決より社会的繋がりの方に重きを置くんだな。

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本物の味

うまいものとは、新鮮な食材を使っているとか添加物が入っていないとか作りたてほやほやとは言われるが、果たしてそうだろうか?

古くて添加物が入っていてしばらく置いておいたものがうまいというわけではない。

だからといってミシュランの3つ星が必ずしもうまいとは思わない。

本物の味とは主観が入るのだが、私ならこう表現する。

まず目の前にうまそうなものが目に入る。

うまそうだなーっとまず食べたときのイメージを再現する。過去に食べた体験があるからこそうまいと感じるのだろう。

そうはいうものの最初に食べたときというのは得てして覚えていない。初めて食ってうまいというような記憶が残るのであろう。

すると息を吸い込むと共に筋肉が収縮してその収縮に伴った神経信号が筋肉から脊椎、延髄、基底核へと伝達して皮質に到達する。その求心信号が徐々に強まってピークに達しロングテールを引きながら余韻を長く残す。その持続性こそ肝である。私は、その継続時間が長い。

このとき思わず頬が緩んで目が薄くなる。

それからその食べ物を少し口に入れて舌につける。すると舌から遠心系の神経信号が身体全体にいきわたり筋肉運動の収縮を指令する。この間は、何も感じない空白の時間である。すると息を吸いながら筋肉が収縮すると共に、求心信号がゆっくり伝達してピークに達してゆっくりフェードアウトする。

旨みは遅れてやってくる。

その間頬が緩み目が細くなり美味しい自分の世界に入り込むのである。頬とクオリアである。

こういう身体運動をゆっくり数回繰り返すことを促す食べ物が本物の美味しさと考えるのである。

中には、舌につけると最初に急激にガンッ!と筋肉運動をして中続きせずにそのまま終わってしまう場合がある。こういうものは、美味くない。

食品添加物が入っていると得てしてガンッ!と急激な筋肉運動をして長続きしないで終わる。息を長く吸い込むこともないし頬が緩むこともないし目も細くならない。せわしないのである。

こういう食べ物をく口に入れると急かされて早食いになる傾向になる。きわめて不健康である。まずいものを食わないほうが良い。

食い物だけではなく、文章も音楽も絵画も他人の話も同じである。お腹で息を吸って頬が緩む時間が長くないと本物ではない、と私は感じる。私の主観である。

これが倍音を鳴らすとか身体全体を鳴らす、ということなのでしょうか?

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2007年11月27日 (火)

トルエンと馬尿酸

トルエンを体内に取り込むと主にベンジルアルコール、安息香酸、馬尿酸へと代謝される。

どれだけの濃度のトルエンを何時間、体重何キロの人が吸い続けるとおおよそ1リットル当たり何グラムの馬尿酸が検出されるのか?

これを詳しく知るには、どうするのかネットで調べ続けたが、今日は見つからなかった。

トルエンは早期に代謝されるから、吐き気やめまいなどの自覚症状があるうちに尿を採取して検査に出さないと検出されない。

医者に診察を受けた翌日、おそらく通報されたのか自覚症状が嘘のように消えて2日後尿検査したら、1リットル当たり0.12グラムの馬尿酸検出で正常の範囲内だった。

あの苦痛の吐き気や倦怠感のある状況で検査すべきなのに、検査する前からその条件がなくなったので検出されなかったのかもしれない。

通報して自覚症状が消失した状態で検査しても検出されないことを判っていて10000円の検査料を取ってやるとしたら問題がある。

あまり検査の状況を知らないのに高額な検査料を取るなんて許さざるべきことだ。

知らないのなら、他所で検査するようにするのがなすべき対処法ではないのか?

異議申し立てが必要だ。

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2007年11月26日 (月)

微笑みの中の発話

今日のスピーチタイムは、女性の方が当番だった。昼休みの後、眠気覚ましのため10数人の前で日常の出来事を話すのである。

彼女は数分間ずっと微笑みながら話していた。私もずっと微笑みながら聞いていた。他を見渡すと、落ちのところでは笑うものの、ずっと微笑んで聞いている人はいなかった。

その方が微笑むと誘導されて微笑んでしまう。私が微笑むから彼女も微笑むのか?

卵が先か?鶏が先か?

ミラーニューロンの仕業か?

話の内容は、神社で着物を着てのお茶会に参加されたとの事だった。そして着物をたたむときうまくたためなくて、最近の若い娘は、きものもたためないのねえ、と時代の変遷ぶりをしみじみと語られたそうで、私も年頃だからきちんとたためないといけないわ、と思ったそうだ。終わり。

というようすで、あまり話の内容は覚えていない。

ジェンダーについての講演を聴いて、人と対面しているときずっと微笑んでいるという現象についてあれこれ考えていて、周囲の状況もチェックしていたので、話の内容までフォローできなかった。

そうはいうものの、数分間、頬の筋肉が突っ張りとおしでうまい具合眠気が醒めて快楽のひと時だった。

頬とクオリアであった。

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2007年11月25日 (日)

大潮の海

今日もいつものごとく海に赴いた。今日はいつもに比べ気持ちが高まった。天気が良く風も緩やか満月で大潮で満潮にぶつかった。

干潮より満潮のほうが気分が良い。近くに海水がたくさんおるのとないのとの違いである。これがはっきり知覚できる。満潮の海はハイテンションになる。

漁港の岸壁を覗き込むと紺碧の海水が満々と満ちていた。

いつもより釣り人たちが多かった。

しばらく覗いていると、しこいわしの大群が左右を行きかった。半透明な魚体がゆらゆらと太陽光を反射させていた。もっと深いところではメジナが群れを成していた。魚君たちも気分が高まっているのである。

漁港の潮溜まりに魚が居るのと居ないのとではやはり気分が違う。居ないときはしんとして気分も晴れない。生きている海水と死んでいる海水と区別できそうだ。

大体冷たい風がビュービュー吹いていると、海水の量も少なくて魚君たちも居ないのである。

今日は絶好の釣日和だ。

おかげで、連休の最後の日、気分良く過ごさせていただきました。