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2007年12月31日 (月)

ヘブライ語じゃないと得られない知識があるのか?

ユダヤ人の若者のヘブライ語離れが激しく老師レビナスが危惧したという。

そこで老師は、ヘブライ語を勉強すると奇遇な叡智が得られることをアピールしたという。

果たしてヘブライ語でしか書かれていない本当に役に立つ知識というものが存在するのか?

古代のユダヤ人が言っているがそれを別の言語に翻訳されない知識があるというらしい。

俺たちだけ知っていれば良いと言う知識だろう。

憂鬱になったらアレルギー科に罹れ!とか、ゴルフをうまくなるにはゴルフ本を読んだりレッスンプロには教わるな!そういう知識かな。

日本語ではお目にかからないだろう。

知識とはあくまで騙しの手段である。利益誘導のために受益者をカモにするものである。読み手にとって利益をもたらす事は書いていない。腐れ縁の手段に過ぎない。

ヘブライ語にはこういうことが書いてあるのか?

このような知識を得るためにヘブライ語を学ばないといけないのか?

そういう言語を学ぶ代わりに、そういう知識を知っていそうな人を嗅ぎ分けてアクセスするしかない。

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2007年12月30日 (日)

メディアと学校教育という継母に育てられた孤児

ちゃんと両親がいるのに、孤児のようになる。

それは、メディアと学校教育だけからしか知識を得ていない状態である。

これら両者から知識を得られればまともになると思われるのだが、そうならない落とし穴がある。

これらには、人間が生物として何億年と培って蓄積されたノウハウが反映されていない。こういうノウハウは、両親祖父母が教育しないと誰が教育するのか?

科学の世界に入ると、どうもその長年にわたるノウハウを学び損ねてしまう。

意識すれば何でも出来る、学習もできる、記憶も出来る、進化できる、

こういう考えの人を良く見かけるけど、おかしい。

それをおかしいというと逆に変に見られる。

すべて意識で可能だということで世の中が回っていると切々と感じるのである。

そうやって生活をすると破綻してくる。

人間の欲求を満たさないことに気付いて、そうなったときは後の祭りとなる。

メディアというのは、その人固有の欲求を満たすことよりも欲求を自制して欲望に走らせようとしている。

欲望を維持することの困難にぶち当たる。

欲望一本になると空気を読め、ということを言われ出す。

空気を読み続けないと欲望は満たせない。

もう欲望はおなか一杯なのに一杯といえない。空気を読むと言えなくなる。

たぶん日本の人口が爆発し始めた大正年間に、誕生した子供は、生物の根本を叩き込まれる場合もあっただろうし、そういうことはまるきり教わらないでメディアと学校教育だけ押し付けられた場合もあろう。双方いずれも結婚して家庭を持っただろうけど、現在に至って、大きく差がついたような感じである。

うちの両親は、メデイァと学校教育しか受けていないということが判ったのである。

すると子供たちにもメデイァと学校教育さえあれば良しと思うのだろう。

メディアと学校教育という継母に育てられた孤児となるのである。

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2007年12月29日 (土)

KY

空気を読めない奴というのが流行語のようだが、難しい話だ。

TPOにあわないこと言動をすることがまさしくKYといわれるのだろうけど、そうだよな。

仲間内で仲間外の奴らを騙そうとしているのにそれに気付かないで、仲間に文句に言ったり仲間外に漏らしたりするのがKYなんだろうね。

そういうKYじゃ生きていけないのが平成日本である。

まあそうはいうものの、

空気を読むというのは、空気が読めないことを悟ることなんだろう。

この人たちとは空気を読む必要がないとか、空気を読まないといけないとか、疲れて身が持たないから空気を読むことを諦めたり、相手が自分に空気を読んできたら絶句して黙っているとか、そういうことなんだろうな。

空気を読んでも相手に伝わるか保障されないし結果が伴うとは限らない。

もし自分が空気を読む必要がないという体験を一回でもすれば、空気を読むことに拘泥はしない。読むというのは読まなくて住んだという体験が一度もないからなのだろう。

空気を読む必要がある相手をパートナーに選ぶというのはまずいんだろう。

空気を読む必要がないのが、同種、必要なのは異種なんだろうな。

読んでばかりいると繁殖力が低下するみたいだ。

空気を読むことが必要な社会にしてしまったから少子高齢化だろう。

やっと空気を読まないで済むというのは判ったけど、空気を読まないと生計が立たない状況はまだ続いている。これは辛い。

社会に出る前に空気を読まなくても済む集団を見出す能力は必要である。

これが自分のアイデンティティーである。

色々苦労して空気を読んでも得るものが少ない。生きている心地がしないのである。

自分の子供に一生懸命教育を付けたとしても空気を読まなくて済む自分の居場所が見つからないというのは、子供の責任というよりは親の責任だろう。

大体判るだろう。自分が何十年も生きていれば、自分の子供がその集団になじむかどうか?

それを進化論だとか学習理論とかいっているから、努力すればなじむものと勘違いするんだろう。

下手に学校で習う知識を子供に触れさせるとやばいんじゃないの?

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2007年12月28日 (金)

休みだというのに

これから休みだというのに気分が晴れない。

一種の脱力感なのか?

さあ明日から東京脱出だと、いつもの休みでは心が沸き立つのだが、今回はそうも思えない。

どうしてなんだろうか?

一人旅の不安なのかもしれない。

今日は納会があり、握り寿司、ピザ、レタス、フライドチキンを食し、一杯の焼酎を飲んだ。

じわじわ身体に効いて温まる様子で気持ち良かった。

話が弾みうきうきした気分が2時間ぐらい続いた。

嬉しい気分になった。

しばらくしてから酔いが醒めると不安が立ち込めてきた。こうなると日頃の滓が走馬灯のように沸きあがり嫌になった。これが今まで続きようやく収まった。

酒を飲んでいるときは気持ち良いのだが、その後のダウンが辛い。

これだからいつもは飲まないようにしている。

今日は、勢いで飲んでしまった。

たぶん食べあわせがあるのだろう。焼酎に合うようなつまみがあるのだろう。

これを誤ると悪酔いするんだろう。

そういうのを知らないと上手な酒飲みになれないな。

焼酎に良いつまみを訊いておこう。

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2007年12月27日 (木)

シンボルという狂気

言葉にして物にして操作できて具体的に道具に落とし込むことが正気で、言語化できない悶々とした怨念やものが狂気というのだが、違うだろう。

シンボルこそが狂気である。社会で受容され流通しているものこそ狂気の沙汰である。

シンボルとは死者である。それを並べて悦に浸ることこそ狂気の沙汰ではないのか?

表現そのものが 狂気である。居ついてしまえば、狂うしかない。

フーコーは狂気を作品の不在といっているらしいが、違うだろう。

作品そのものが狂気である。

分節化してシンボルに落とし込まれて紙にインクで印刷され、有機揮発物質を発し、人々を狂気に陥れる。

フーコーは底が浅い、と消費者は考えるのである。

断片化しないある特定のリズムによる精神運動こそ正気である。

正気は作品になりえないのである。

屍を並べて何が嬉しいのか?

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2007年12月26日 (水)

都合の悪いこと

自分に都合の悪いことがあり、とにかく解決しようとして論考を重ね原因らしきものが見つかった。

責任の所在と解決法をいざ表現しようとしても、組織化された少数派の人々の不都合になってしまう。

自分の不都合が、組織化された少数派の人々にとって好都合であり、自分の好都合が、その少数派にとって不都合になる。

自分というのは組織化されていない多数派である。

おそらく今後組織化されることはなかろう。

誰かが先導してひとまとめにするのか?

するとあの時代を思い起こしてしまう。

果たして好ましいことか判らない。

それで棚上げしたり忘れたフリをするのか?

これがやさしさなんだね。

結構自由に出来るから、不都合になったり好都合になるんだな。

イギリスのように規範が厳しい国では、自由に出来ないからそういうジレンマに陥らない。

だからこそその矛盾を思い切り表現できて楽しいのだろう。当事者がいないからね。

翻って日本というのは、おとぎの世界を本気でやらなくてはいけない深刻にならざるを得ない当事者ばかりだから、イギリスのようには行かないんだね。

彼らのコメディーは、日本人を揶揄しているように見える。

こういう不都合からは、黙って離れるしかないけど、離れたら離れた分、組織化された少数派に捕捉されてペナルティーを受けるようになっている、と感じてしまう。

厄介な国だなあ。

先生は、組織化されない多数派の生態を追っかけるのが本文みたいらしいけど、組織化された少数派にも優しいのですね。少数派のための多数派生態研究なんですね。

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2007年12月25日 (火)

ストレス

今朝の新聞の朝刊でストレスの特集があった。

男は、仕事、女は、体調不良をストレスの原因としているらしい。

解消するために、それぞれ、酒を飲み、おしゃべりに夢中になるらしい。

本当なのかな?

長時間仕事するからストレスなのか?体調不良だからストレスなのか?

いずれも建物の中で部屋を閉め切っているだろう。

男は、いちいち体調不良だなんていっていられないから、長いこと仕事しているからストレスになると思い込み、女は、いつも不定愁訴を感じながら生活しているからなんだろう。

やっぱり有機揮発物質なんだろうな。

普通臭うんだけど、匂いを感じるのではなく、不定愁訴を感じることになる。

知らないうちにだるくなって気が重くなって不安になる。

やはり心療内科か精神科にかかることをお勧めしていた。

これを信じてしまうから怖い。

これを信じないでアレルギー科に行ったほうが良いに決まっている。

誰のための記事なんだろうね?

結構日本という国は、少数の組織化された人々が得するように論じて利益誘導することが横行している。

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2007年12月24日 (月)

ドラマトゥルギーとしての黒澤映画

「生きる」という黒澤映画についての紹介があったが、ピンと来なかった。

紹介そのものがドラマトゥルギーである。

躍動したつながりが出ておらず乗っていけなかった。

失礼だが、胃がん患者が登場すること事体ドラマトゥルギーである。

がんになる前の人との関わりよりなってからのかかわりを描くこと事体、単なるセンセーショナリズムというかお決まりの涙頂戴である。

がんになる前の過酷な人間関係を描くべきだろう。

そういうものが隠蔽されているのか?

観てみないと判らないが、どうなんだろう。

学生と対峙させるのだから、彼が経てきた過酷な人生経験は棚上げされているんだろう。

いつも思うのだが、なってしまってからのことをどうしてセンセーショナルに取り上げるのか?

なる前とかならないようにする、という発想がないみたいである。

仏陀は、目の当たりにする悩めるものに現状の悩める状態を緩和することに注視して、その原因やいきさつは問わないらしい。

憂鬱になってカウンセリングや薬の処方を頂くが、原因がアレルギーということを言わないことに系譜するのか?

現代の臨床心理とか医療というのは仏陀の無記の伝統を汲んでいるのか?

対症療法中心で根治はしない。

腐れ縁の推奨、組織の論理。

問題を経験したものから見たら居たたまれないが、問題をねたにして食うものにとっても死活問題。

問題が起きて困っている人と問題によって食べている人との信念対立である。

「いきる」の紹介を拝読して、紹介のぎこちなさと無記という対症療法を連想して頭に来てしまうことがあった。