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2008年1月31日 (木)

本当のことは言わない

またいつもの繰り返しで成長しないなあと思うが、気になる。

頭の良くなる方法を頭のいい人が言われているのを目の当たりにして、その方法じゃあ頭良くならないよ、と思う。

実は、頭の良い原因があるのだろうけど、それは言われないんだよな。

こそこそ、その事情を判っていそうな人に、実はこうこうこういう理由で頭がいいのでしょう、うんうん、とお互いニヤニヤして盛り上がる。

そういうことは、新聞にも本にも書いていない。テレビでも言われない。

ついつい言いたくなる性分で、口が滑りそう。相手を選ばないとダメだ。判っていそうな人と身近な人。中途半端に利害関係のある人に言うとまずそう。

ゴルフ談義でも3種類の相手を想定するとうまくいくことが判った。

1.本やビデオ、レッスンプロについて習って努力してうまくなろうとしている人

2.うまい人

3.プロ

これら相手によっていっていい事とダメなことがある。うまい人には、何でも言える。

うまくなろうとしている人には、言うと気分を害したり、下手をすると包丁が飛んでくるという。

プロの人に言うと、詰まらなそうな表情になる。

こういうことばかり考えると食えない。

プロになるには、天然じゃダメだ。本音をぽろっと出してはいけない。

私は、どうもにらめっこが出来ない性分だから困る。

だから仲間に入れて貰えない。

組織の論理と本音は相容れない。

そもそも組織の論理というのは、論理の数とか種類が必要以上に爆発しているんだろうな。

それをニヤニヤしているようじゃ、しらーっとされてしまう。

そうされた経験がある。

しらーっとする意気込みというかパワーを感じる。

そういうのは、イギリスではちゃんとコメディーになる。

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人生の本質は変化ですか?

万物流転で常に変化する。自分の身体も何日かすれば新陳代謝によって別のものに置き換わるという。

だから何だというのか?

情報量0.

変わるのはめまぐるしくて嫌で堪らないときに、そういうものが本質だと戒めるためのもの。

どうせ万物は変わるものだ。留まっていることはあり得ない。

こういうことを言うから、忙しくて落ち着きがない文化的遺伝子がこの島国に熟成されていったのだろう。

今日の自分は、昨日の自分とは違う。これが人生の本質だって。

常に違っていて変化がある。進歩という。成長する。

どう進歩して、どう成長するのか?色々なものに動じていたのが動じなくなることか?鈍感力というのだな。せわしなく動いて進歩して成長して動じなくなって鈍感になる。

日本版強化学習。

いつも大きく息を吸って大きく吐く。

自分にとっての進歩とか成長は、せかせかした息遣いからゆったりした息遣いになること。

するとドーパミンが出るようで心地よい。

変化はこれ限り。

いつも大きく息を吸って大きく吐けば、終わっている。ここを変化させてはいけない。

色々な息遣いをして変化するから疲れるのである。

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2008年1月30日 (水)

風邪から悪運の連鎖

風邪をひいて辛くていつもやっている手伝いが出来なかった。それをとがめられて意地悪されたという。自分の仕事もはかどらない。意地悪された理不尽も心に突き刺さる。

意地悪されたから上司に相談を持ちかけたらしい。

すると日を改めてということになった。

本人は、意地悪されるのは自分の至らなさと言うことを自覚しているらしい。

本来救いを求めようと相談を持ちかけたはずであるが、上司から意地悪される原因をとくとくと並べられ、自分の至らなさを責められるかと思って余計に不安になったという。それことからクビにされるのではないかと恐怖感をも持っているという。

仕事そのものより、相談がどうなるか不安で堪らないらしい。

体調のすぐれないときは、黙っていれば良い。意地悪されても反応しなければ良い。

反応するがゆえに、話が大きくなる。相談を持ちかけて、それから悪い予感が広がっていく。

反応しなければ、相談を持ちかける必要もないし、意地悪する原因も聞かなくて済む。

なんか責められれば、済みません、謝りとおせばよい。

そういう知恵があれば、もっと楽なはずなのに、という話だった。

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独り相撲はダメね

何か変なことがあったり感じたりすると自分ひとりだけのような問題と思ってしまう。他人にはない自分固有な問題として一人悩んでしまうことが多い。

これは、とんだ早とちりである。

自分がおかしく感じたら、周りの人も、おそらく全世界の人もおかしく感じるものである。

自分一人だけ変と感じていて、正論を盾にしてその場から回避しようとアクションを起こそうとすると馬鹿をみる。

そうすると得てして術中にはまる。

最初のペンギンなんて嘘だ。あれは御伽噺の世界である。現実は、そうではない。

変だと思えば、周りを見渡して、変な状態にどういうアクションを起こすか?よく観察して、そのままだったら、一緒にそのままでいたほうが良い。より良いものを求めて一人動いてはいけない。

おおよそ身体的な困った問題を解決すると、そういう境地になる。

苦しいと新奇を求めてさまよおうとするが、もはやそういうことはない。動かないほうが良い。

自分の解決したノウハウで一旗あげようなんてことは止めた。得てしてそういうものは眉唾物である。大事な人のためにここぞと取って置けばよい。

読んでいただいていますかねえ?

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2008年1月29日 (火)

食と温泉と芸人

日本は今後、食と温泉と芸人で立国していくと言われるが、解せない。

まず食についてだが、日本人はさほど食にこだわらない。お疲れ気味で感覚が鈍麻しつつあるから、味覚の追求に精魂を使う人って珍しいのではないか?

飲食店というのは、食材とか味を追及する以前に土地代と設備費にお金が掛かってしまう。立派な建物の食堂というのは、よっぽどの大枚をはたかない限り期待できないことが多い。

手ごろな値段でうまいものが食えるところはめったにない。そもそも日本というか東京で食欲が沸くことがあまりない。お客が求めないから材料が貧弱である。味さえ濃ければいいという感じで、舌に食べ物を置いて倍音が醸し出るような味わいはめったにない。

外国の訪問者は、味の濃さに辟易するだろう。

飯は、大陸で食ったほうがうまい。

次に温泉。

日本は温泉を重宝するが、地質的に軟水が多くミネラルを多く含んだ水が珍しいからであろう。水道水にミネラルがあまり含まれていない。特別な温泉地に行ってはじめてミネラルを含んだ水にありつける。

日本人がお湯を湯船に満たして入るのは、そうしないと体が温まらないからだろう。

大陸では、押しなべて水道水が飲めない。硬水だからである。つまり温泉とか鉱泉が極当たり前である。彼らはシャワーだけで充分温まる。

自分も普段シャワーを浴びているだけだが、大陸で浴びると温まり方が違う。

温泉から出たようなのぼせ感がある。

温泉をジャブジャブ浴びているのである。

大陸では、温泉を意識しないでも温泉を浴びているのである。

最後に芸人。

大陸から見たら日本人はすべて芸人だろう。欧米では、他人事のように芸人にコメディーをやらせるが、同じことを日本でやるとシラーッとしてしまう。身につまされるというか当事者だから。

むしろ日本で見る芸人は、大陸の極普通の一般市民じゃないかと思える。日本では、世界で極当たり前なことが非日常なのである。

大陸から来る人は、テレビの中の世界にいるような錯覚に陥るだろう。御伽噺である。

逆に日本を出て大陸に渡ると、これまたテレビの世界になる。

逆なのである。テレビとは、大陸にせよ日本にせよ非日常の世界を映しているのは同じだが、世界が逆である。日本のメディアが世界で通用しないのは、彼らにとって極日常過ぎるからであろう。日本の市井の人々が世界のメディアで受けるのは、まさしく自分たちが目指している非日常の世界だからであろう。

とまあ、先生方の言われることとは、逆になりました。

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2008年1月28日 (月)

新しいことをやれやれ

メディアは、新しいことをやらせようと喧伝している。

新しいことというのは、難しい。人間の感覚とか欲求からかけ離れているから、飽きが来る。常に意欲を維持するのが難しい。飽きが来るたびに、また別の新しいものを追い求めなくてはならなくなる。しかもそれが受けるかどうか判らない。

そういう先の読めないことがいいことだというけど本当か?

というより、これまで散々新奇な事はやりつくしてきた。

今となって、その新奇の先が見えなくて困っている。

新奇というのはつぶしが利かない。

にも拘らず新奇性を追い求めることを止めたらすなわち生存が危うくなる。

そういうものをやらせようというんだから無茶な話だ。

むしろ古いことのほうが良い。人類が始まって以来延々と続いてきたもの。これこそやるべきことである。

古きよきことは、若者にとってダサくてすぐ飽きてしまうものだと喧伝しているが、実は違う。

飽きることが決して来ない素晴らしいことである。

クオリア的にはこの上ないことである。

クオリアに新規性はない。生物至上何億年に渡って受け継がれている。

どうしてそういった脈々と続いていることを放り投げて新奇に走るのか?解せない。

新奇に走ると人間止めなくてはいけない。

折角のクオリア原理主義も台無しじゃないか?

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2008年1月27日 (日)

ウンチクをたれる人々

メディアや書物をそのまま受け売りしてウンチクを垂れるおじさんがいる。ウンチクを垂れる割にはそのものがうまく出来ないし、ウンチク自体を丸暗記していて身体と結びついていないし、いらいらしているし、体調もすぐれないようだ。

そういう状態が恥ずかしくないのかと思う。

若者に反発を食う年長者というのは、得てしてこのパターンであろう。

学校教育も同じ。

身体と概念が分裂しているから勘の鋭い生徒は瞬く間にそっぽを向く。

まず生徒には、そういうウンチクを垂れるおじさんから逃げることを教えるべきだ。

しかし邪道だと言われる。

そういうウンチクからなかなか逃げられない。

世の中、そういうウンチクを垂れるようにすることが最大多数の最大利益となっている。

功利的に、このパターンが、多くの人を養えるのである。

羊飼いと、羊、山羊がいるこの世の中、羊飼いがウンチクをばら撒き、羊がそれを文字通り受け取り、そのまま垂れ流す。得てして不器用で棒読みで躍動感というかリズムがない。羊たちは、山ほどのシンボルを取り込むのである。

一方山羊というのは、そういうウンチクを本能が受け付けない。そのまま拒否してしまう。拒否して羊飼いになってウンチクを垂れ流すほうにも組しない。

羊飼いというのは、ウンチクがガセであることを判っていつにも拘らず、最大功利を求めてあえなくウンチクを放逐している。

羊飼いと山羊の葛藤というのがある。山羊は羊飼いの仲間に入れてもらえない。入れてもらうには、馬鹿らしいことをせせら笑わず、能面してやり遂げる覚悟が必要である。

にらめっこしましょ、笑ったら負けよ、あっぷっぷ、である。

山羊から見ると羊飼いのダブルバインドネスとか自己解体は可笑しくて笑えないのである。

羊飼いは、自分たちのことをどう思っているのか?

自己批評性というのも一時期流行ったようだが、最近言われなくなった。

自己批評できないんだな。

イギリスでは出来るけど、日本では難しい。

最大多数の功利性なんだな。

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組織に属さずにやる

ニュートンにせよ、ファーブルにせよ、本居宣長にせよ、アカデミックに属さず自分勝手にやって晩円に注目を浴び世に名が出たという。

そういうところに属さなくても勝手にやればいずれ認めてくれるというような学問の奨めをしていただくと、一緒やったろうか、と意欲が出てくる。

そういうコピーで学習熱を沸かせて、少子化に悩む教育産業を活況付けるもっともないわれである。

しかしそう世の中甘くない。

そもそも、彼らは、世の中の大勢から見れば、どうでも良いニッチであった。彼らの成功によって、誰も損しないのである。だから認められたのであろう。認めても損害をこうむる人々がいない。

しかし五臓六腑から出たかけがえのない知識というのは、重力でも昆虫でも古事記とは違って、世の中の大勢を変えてしまうのである。

そういう知識は、それぞれ個人が孤立して格闘している。私的なこととされ、公言することははしたないという倫理的規制がなされている。この規制があるから昆虫や古事記のように行かないのである。

勝手にやって成功するんだという言葉に励まされることもあるが、少数派にとって個別化して孤立していたほうが都合いいのだからあえてその個別性を表にあげることはしない。諦めなさい、ということなのである。

個別といいつつ誰でも共通化した個別性である。

個別性を大事にせよといわれるが、あくまで個別の状態にとどめた上で、個別性のかけがえなさを説いているのである。

個別な状態こそかけがえないのである。

いずれ個別性は消失していくのではないか?

そのたき、誰かが何をしたという功績はあり得ない。重力や昆虫、古事記と違うのである。

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X線の安全性

レントゲンを撮るときCTスキャンを受けるとき、X線を浴びると言われるが、最近危険ということで拒否する患者が増えていると今朝の朝日新聞の記事で出ていた。一方多少のリスクを負わないで重大な病気が看過される危険性も合わせて載っていた。

こういう記事を読んで、果たしてX線を使った検査を受けるべきかどうか悩んでしまう。

CTを受けると通常のX線レントゲンを100回連続して撮るのと同じぐらいのX線を浴びるということを、聞いたこともある。

私は自分の感覚を鋭くして病気の兆候を掴みたい。気だるい、お腹が張る、吐き気がする、といった兆候を逃さずに捉え、どういう原因でそうなってそうやって解消するかを探求して、もしそのようなことがあったらすぐさま解消することを心がけていきたい。

そういう兆候があるにも拘らず、我慢したり、見過ごしたりして、その状態が長く続くとクリティカルな問題が起こるはずである。そうならないように早期に回避するしかない。

科学技術の力を頼らず、自分の感覚に頼って病気の兆候を的確に捉えるような、感覚と症状の対応関係を捉えていきたい。結びつけ問題なんだろう。

残念ながら、鈍感力といわれるようにすべての感覚にいちいち応えていたらやっていられないこともあろう。そういう世の中の風潮がある。

しかしこの風潮に流されたらセルフ・メディケーションが出来なくなる。

極力無駄な刺激を回避して、身体の内なる声を聞いて、病気に掛からないよう摂生すれば、極力科学技術に頼らなくても大丈夫なのではないか?