縁と円
池田氏のブログを読んで改めて自由について考えてみた。
自由とは、実は、日本にはない西洋の概念らしい。
中国では、勝手気ままという意味らしいし日本では、無縁ということらしい。
縁から切り離されて浮いている状態という。
すべて縁から始まっているという。その縁は先祖代々から受け継がれていて、その縁から切り離されると生きていけないとも言われる。
最近は、縁とかは言われず西洋に習って自由という概念が広がりそれに従って生きてきたがどうも間違えであった。
出会う機会はあるが、気心が知れないというか息が合わなかったり言葉が伝わらないと縁が結ばれないのである。幾ら努力しても困難である。何年お付き合いしても縁にはならない。
先祖代々から気心の通じる人、感覚が合う人というものを識別していて、そういう人じゃないと縁にならないのであった。
面接や見合いで縁がないというのは、どうみてもあなたとは気心が合わせられない、と宣言されているようなものであろう。そもそも最初から縁は判っていて、縁が結ばれるはずがない相手にはそういう話は持っていかないというのが慣わしなのだろう。
本来縁がない相手と一緒に生活していくのは辛い。常に気を使わないといけない。気力が消耗してくる。それでいても結果を出すことが困難であることが身につまされる。
縁がないと円にならない。つまり生活上がったりである。
縁がないと信用されないし奴隷扱いされるだけである。どうやら下層に甘んじるのは、縁に基づいて職業についていないからだろう。縁があれば、粗末に出来ない。縁がないからこき使っても相手が苦しんでも平気になれるのであろう。
西洋では、大体同じ民族であれば気心を通じやすく、縁を意識しなくても生活が成り立つが、日本では、多種多様な身体の骨格や体格、息遣いの人が集まるから、敵味方を識別して縁という概念が必要不可欠だったのだろう。
縁を通じてのみ社会生活が送れる。
それを誤解して日本も西洋のように縁を棚上げして除外してしまうような表向きの制度が出来上がったので、それに騙されて乗ってしまうと、とんでもない結末になるのであろう。
今現在でも、ちゃんと理解している人はいて、すべてコネによって縁が切れないような生活を営んでいる。縁を結ぶのは親の責任となっていて、縁ある人に子供を信託するのである。
幾ら自分でほれぼれするような文章を書いても縁がなければ円にならない。縁ある人々だけが身になるということを目の当たりにして、残念だな、と思った。
縁がない以上一生懸命文章を書いても空しい、ということが判明したが、だからといって今すぐブログを止めようとは思わない。
縁とは無関係に文章にすることはそれだけでも意義があると思う。
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