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2008年3月31日 (月)

縁と円

池田氏のブログを読んで改めて自由について考えてみた。

自由とは、実は、日本にはない西洋の概念らしい。

中国では、勝手気ままという意味らしいし日本では、無縁ということらしい。

縁から切り離されて浮いている状態という。

すべて縁から始まっているという。その縁は先祖代々から受け継がれていて、その縁から切り離されると生きていけないとも言われる。

最近は、縁とかは言われず西洋に習って自由という概念が広がりそれに従って生きてきたがどうも間違えであった。

出会う機会はあるが、気心が知れないというか息が合わなかったり言葉が伝わらないと縁が結ばれないのである。幾ら努力しても困難である。何年お付き合いしても縁にはならない。

先祖代々から気心の通じる人、感覚が合う人というものを識別していて、そういう人じゃないと縁にならないのであった。

面接や見合いで縁がないというのは、どうみてもあなたとは気心が合わせられない、と宣言されているようなものであろう。そもそも最初から縁は判っていて、縁が結ばれるはずがない相手にはそういう話は持っていかないというのが慣わしなのだろう。

本来縁がない相手と一緒に生活していくのは辛い。常に気を使わないといけない。気力が消耗してくる。それでいても結果を出すことが困難であることが身につまされる。

縁がないと円にならない。つまり生活上がったりである。

縁がないと信用されないし奴隷扱いされるだけである。どうやら下層に甘んじるのは、縁に基づいて職業についていないからだろう。縁があれば、粗末に出来ない。縁がないからこき使っても相手が苦しんでも平気になれるのであろう。

西洋では、大体同じ民族であれば気心を通じやすく、縁を意識しなくても生活が成り立つが、日本では、多種多様な身体の骨格や体格、息遣いの人が集まるから、敵味方を識別して縁という概念が必要不可欠だったのだろう。

縁を通じてのみ社会生活が送れる。

それを誤解して日本も西洋のように縁を棚上げして除外してしまうような表向きの制度が出来上がったので、それに騙されて乗ってしまうと、とんでもない結末になるのであろう。

今現在でも、ちゃんと理解している人はいて、すべてコネによって縁が切れないような生活を営んでいる。縁を結ぶのは親の責任となっていて、縁ある人に子供を信託するのである。

幾ら自分でほれぼれするような文章を書いても縁がなければ円にならない。縁ある人々だけが身になるということを目の当たりにして、残念だな、と思った。

縁がない以上一生懸命文章を書いても空しい、ということが判明したが、だからといって今すぐブログを止めようとは思わない。

縁とは無関係に文章にすることはそれだけでも意義があると思う。

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2008年3月30日 (日)

大柄な歌手の不在

大柄で声が通る歌手は日本ではめったにお目にかからない。いたとしてもクラッシックの歌劇やオペラなんだろう。歌謡曲の歌手は珍しい。

大柄な女優はいるけど歌手にならない。高島礼子、松嶋奈々子、など歌を唄えばいいのにと思うがかなわない。和田アキ子も歌うが余り彼女の身体にあっていないように見える。身体を鳴らす余韻が少ないのである。

彼女たちにぴったりな曲を作る作曲家がいない。つまり大柄な作曲家がいないことになる。

代々大柄な人の音楽文化がないのである。

小柄な作曲家が大柄な歌手にぴったりの曲を作ることは不可能である、といえる。

肺活量が少ないため呼吸の切り返し時間が短くなる。切り返しを長くするとその作曲は、船酔いのように吐き気がするはずである。

大柄な人は人口比率でいうと少数派だからマーケットが狭くら売り物に出来る確率が減るのだろう。

大柄な人が歌うと極平均的な体格の人は大概こう感じるらしい。

偉そう、押し付けがましい、エネルギーが必要で疲れる、繊細さがない、人の心を傷付ける、

これじゃ売れない。じゃあ女優か小説家になりましょうか?となる。

大柄な人から見れば、沈んだ気分を高揚させてくれる。大柄な人向けの文化にアクセスできないのである。

そんなまじめ腐っていないでカラオケでも歌ったらと説教をされるが、

大柄な人にカラオケを薦めるのは拷問である。なんせ合う曲がないのだから。

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大男の哲学体験

哲学とは喜怒哀楽なく感情を抑えた理性的営みといわれるが、この営みを大男がやるときわめて哲学的である。

大男といえば、感情の起伏が大きく喜怒哀楽をストレートに出す。格闘技でも球技でも沈黙や理性は一瞬で終わることを繰り返す。一瞬の沈黙と時間幅がある感情の起伏である。

大男が小柄な男がやるように平坦に語り続ける。抑揚を込めない。それが哲学的営みのルールであると見なしている。一種のピアプレッシャーである。

大男一人と小柄な男多数である。皆に合わせて声を細めて語る。

感情を込めたり抑揚をつけるとアホに見られるというようなプレッシャーがあるのだろうか?

大男が声を細めて発言すると周囲は沈黙する。

金縛りになってなんともいえない気分になる。それが10分、20分も続く。言い続けて周囲は沈黙して反応がない。皆沈黙のうちに合意したものと捉えられて話が止まらない。皆呼吸が薄くなってくる。臨死体験をしたようだ。聴衆の一人が一息何かを言ってひと時の復活をもたらす。すると再度大男が語り続け臨死状態になる。文法は間違っていないしその一言一言は間違っていない。しかし理解不能である。

大男が語りかけて反応がない。理解してもらおうと意識的になるが呼吸不足をもたらす。本人は呼吸不足のまま話を続ける。すると大男も次第にうつろになる。聴衆も呼吸不足になる。

この状態を誰も笑わず神妙に臨む。これが哲学的体験である。

話の内容が記憶できず理解できないから、話者と聴衆の関係性でしか語れないのである。

実践哲学である。

神妙に沈黙すべきなのに笑ってしまうためか葛藤が生じてしまう。

笑うと何故葛藤が起こるのか?単に失礼だからか?お互い理解し得ないことを笑われて腹立たしいのか?理解し得ないことがまずいことなのか?

お互い理解するという体験がないのか?

何故理解しあう体験が出来なくなるのか?

では何故それがまずいのか?

周囲は何故それを不問にしその状態を継続させるのか?

その大男に問いてみたい。

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村上春樹という飴と入れ歯という鞭

ピップエレキバンをお教えくださった内田先生の「入れ歯」理論に思わず反論したくなった。

合気道の達人は入れ歯が良く合うらしい。合わない場合は幾ら作り変えても合わないらしいが達人たちは一発で合わせてしまうらしい。

これは合気道の技の一つらしい。自分と合わない異物に対しも合わせて同化するという。

普通、合わないものは不快で苦痛で合わせようとすると努力と辛抱と根性がいる。それを鍛錬によって楽に出来るらしい。

進化主義的発想である。

やれば出来る。他人を変えるより自分が変われば手っ取り早いというのである。

たぶんこういう思想で携帯電話を世界に売ろうとしても売れないだろう。

イライラしそうな細かいキーさばきも鍛錬の末同化してらくらく使えるようになる、

イラついて青筋がピリッと切れて投げ付けるようなことはしなくなるという

ような思想が通用するかである。

ところで

入れ歯と糞塗れを比較してみる。

入れ歯は我慢すればなれるようになるが糞に塗れるということは有害だからあってはならないというだろう。何故有害なのかというと含有する窒素化合物や硫化化合物が毒だからであろう。じゃあ何故毒かと言うと、呼吸を阻害してしまうからである。

ただ臭いとか汚いとかばい菌が沸くというだけではなく、結果的に呼吸が「出来なくなるから有害である。合気道の技のように鍛錬すればそういう化合物と同化できるかというと一般的には出来ないとされる。

入れ歯の場合も、合わないと気が散ってイライラして結局まともに呼吸が出来なくなるのである。奥歯の詰め物でも0.5ミリずれるだけで力が一つの歯に集中して痛くて痛くてたまらないことがある。

それを我慢したり感じなくなるというのは鈍感に他ならない。

糞も入れ歯も変わらない。ましてや伴侶も糞と同じか?

入れ歯はそこそこあわないと自己同一は担保されない。イン歯―わたくし率100%じゃないと別の世界、になるのである。

こうやって入れ歯という鞭を与えつつも村上春樹という飴を与えられるのも奇妙である。

倍音を響かして身体が鳴って心地よい若きを謳歌したのち年を取って合わない入れ歯と格闘しなくてはいけないというのは、酷というかありとキリギリスというか先楽後苦とあべこべになる。

文壇で目の敵にされる傾向にある村上春樹を持ち上げられつつも、合わない入れ歯との格闘の末の同化というような進歩主義をも併置することによって文壇の意向に合わせられるというのは一種の世渡り上手といえるのか?

統合を唱えつつも後ろになってばたばたと分裂させるのがこの世界で生きていく要諦なんだろうとふと笑える。

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花冷えと自律神経

今日は、午前中、そこそこ暖かかったが昼過ぎから身が凍えるぐらい寒くなった。

昼は行きつけのラーメン屋で食し、新聞をぱらぱらめくると精神医学のついての著作が書評で紹介されていた。

精神の不具合に関して薬で治したいという一派と薬は嫌だと大きく2つ分かれているらしい。

最近は薬で治す一派が圧倒的に強く、世間は、見た目簡単な処方で解決することを望んでいるから、という。

心なんか複雑で簡単に判るわけないのに、一言で済ませようとする風潮はけしからん!という。だから薬が嫌だという一派にも目を向けて!というように読めた。

世論を一つの方向に誘導したい気持ちは判るが、変だなあ、思う。

どちらの一派も変である。薬や言葉じゃなくピップエレキバンである。

こういう花冷えになると、さほど寒さを感じえず、体が冷えてきて不安になることがお決まりだった。春の憂鬱というものだった。

これは東京に特化していることは10年前判った。

京都の一番寒い時期に滞在したときは、幾ら寒くても敏感に寒さを感じて、体が冷えて不安になることはなかった。

韓国に行ってもなおさらである。氷点下10℃以下でも、きりきり寒さを感じるのだが冷えにはならなかった。

得てして東京は、寒さを感じず身体が冷えて不安になるのである。

これもようやくなくなった。

この花冷えでも敏感に寒さを感じて辛かったが、体が冷えたり倦怠感があったり不安はなくなった。

やっぱり磁気の影響で血の巡りが良くなって自律神経が万全だったのだろう。

こうすると私の主観的体験から言うと心の問題ってそんなに複雑で結論が出ないものなの?

と思うのである。私の予想では殆ど地磁気欠乏が原因だと考える。

知り合いの方には全員ピップエレキバンのことを嬉しそうに話して試していただくようお勧めしている。

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2008年3月29日 (土)

イラつく会議

いろいろなところで会議に出ることがあるが、押しなべて共通なところがある。どうも煮え切れなくてイラついてしまうのである。

要点を抑えれば、30分で終わるようなことを2時間、3時間やっているのである。

良く考えると何故か?判ってきた。

周囲が理解しているかいないかを見渡さないで長々一人で話し続けている。しかも喜怒哀楽が込められずに平坦に論理の羅列をまくし立てる。だから周囲がだんだん疲れてきてそれが自分にも伝わってきて嫌になってくるのである。

そういう人があまりにも多い。

長々間を空けずに話しているのを聴くと良く判らない。話している本人も判っていないのだろう。そういうことを多くの人がお互い様でやっていて誰も咎めない。

そういう人というのは、その分野とか世界だけ押さえていれば安泰だという立場を持っている。他に関心とかコミットメントがないからその分野だけに精通していれば良いらしい。他人に理解してもらわなくても特に問題がない。

それで済むのならいいのかもしれない。

私としては、そういうのが詰まらなくて、色々なところに手を出しているから根がつかず、不安定だ。貧乏暇なしである。だからそれぞれのところでさっさと要点さえ抑えれば良いというスタンスなので、イラついてしまう。いちいちそういうものに付き合っていられない。

そのイラつく態度に周囲は歓迎しないのである。

自分たちだけの世界に籠り、冗長で外から見ればどうでもいいことを長々と続ける。しかも平等に、好き勝手に言って誰も理解しない。好き勝手というより何が嬉しいのか?何がむかつくのか?何がおかしいのか?よく判らず、感情が伝わらないから面白くない。ただ論理を羅列しているだけ。その論理体系が、感覚に結びつかないから、エピソードにならない。

そういうことをやりやってなんとも思わないという神経にはついていけないことが多い。

ぼそぼそ御託を並べてお互い理解しないで済むような世界にどっぷり漬かるような社会システムなのだろう。

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2008年3月28日 (金)

歌手と作曲家のずれ

どうも当日の出来事をその日の夜書くことは難しい。おとといTさんとカラオケ付バーに行った。

Tさん行きつけの店で多くの常連さんとも懇意であった。

酒とつまみを食べ少し話してからカラオケを始めた。

Tさんとご友人のAさんは、プロ並みの歌唱力だった。この店で歌う方は押しなべてプロのようだった。終わってから点数がつくカラオケで90前後である。

私は、知っている中から搾り出して、夢の途中やMy Revolution、島唄を歌った。

何とか72点だった。

平均的な体格の日本人向けに曲や唄が作られているようで、歌うとせかせかしてしまう。空気をお腹の中から吐き終わる前に次に進んでしまう。折角身体で余韻を楽しんで気持ちよい気分に浸ろうとしているのにその余地がなく、息が詰まってしまう。いまいち楽しめない。

自分の体格に合った歌謡曲が欲しい。あればどんどんカラオケにはまるのだけど。

最近、ある歌手の歌をユーチューブで聴いた。歌手が曲に急かされて持ち味が出ていなかった。太く大きくゆっくり波を打つような地声なのに曲が合っていない。彼女が余韻に浸ろうとするまもなく次から次へと急かされていておかしかった。

コメディーを意図したはずではないはずだ。

作曲された方は、小柄で肺活量が少ないのだろう。

もっとテンポをゆっくり深くした曲を作曲してあげれば世界に通用するのではないかと思う。

折角の逸材を余韻のない曲でダメにしている。もったいない。

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