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2008年3月30日 (日)

村上春樹という飴と入れ歯という鞭

ピップエレキバンをお教えくださった内田先生の「入れ歯」理論に思わず反論したくなった。

合気道の達人は入れ歯が良く合うらしい。合わない場合は幾ら作り変えても合わないらしいが達人たちは一発で合わせてしまうらしい。

これは合気道の技の一つらしい。自分と合わない異物に対しも合わせて同化するという。

普通、合わないものは不快で苦痛で合わせようとすると努力と辛抱と根性がいる。それを鍛錬によって楽に出来るらしい。

進化主義的発想である。

やれば出来る。他人を変えるより自分が変われば手っ取り早いというのである。

たぶんこういう思想で携帯電話を世界に売ろうとしても売れないだろう。

イライラしそうな細かいキーさばきも鍛錬の末同化してらくらく使えるようになる、

イラついて青筋がピリッと切れて投げ付けるようなことはしなくなるという

ような思想が通用するかである。

ところで

入れ歯と糞塗れを比較してみる。

入れ歯は我慢すればなれるようになるが糞に塗れるということは有害だからあってはならないというだろう。何故有害なのかというと含有する窒素化合物や硫化化合物が毒だからであろう。じゃあ何故毒かと言うと、呼吸を阻害してしまうからである。

ただ臭いとか汚いとかばい菌が沸くというだけではなく、結果的に呼吸が「出来なくなるから有害である。合気道の技のように鍛錬すればそういう化合物と同化できるかというと一般的には出来ないとされる。

入れ歯の場合も、合わないと気が散ってイライラして結局まともに呼吸が出来なくなるのである。奥歯の詰め物でも0.5ミリずれるだけで力が一つの歯に集中して痛くて痛くてたまらないことがある。

それを我慢したり感じなくなるというのは鈍感に他ならない。

糞も入れ歯も変わらない。ましてや伴侶も糞と同じか?

入れ歯はそこそこあわないと自己同一は担保されない。イン歯―わたくし率100%じゃないと別の世界、になるのである。

こうやって入れ歯という鞭を与えつつも村上春樹という飴を与えられるのも奇妙である。

倍音を響かして身体が鳴って心地よい若きを謳歌したのち年を取って合わない入れ歯と格闘しなくてはいけないというのは、酷というかありとキリギリスというか先楽後苦とあべこべになる。

文壇で目の敵にされる傾向にある村上春樹を持ち上げられつつも、合わない入れ歯との格闘の末の同化というような進歩主義をも併置することによって文壇の意向に合わせられるというのは一種の世渡り上手といえるのか?

統合を唱えつつも後ろになってばたばたと分裂させるのがこの世界で生きていく要諦なんだろうとふと笑える。

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