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2008年5月31日 (土)

大学生がよむ50冊

今日も寒かった。

秦野の東海大学に東急と小田急を乗り継いで赴いた。

本厚木を過ぎる何となく頭がカーッとしてきたので、いつも胸ポケットに入れているギベオン隕石とピップエレキバンをズボンのポケットにしまった。

このあたりは、そういうものを携行しなくても間が持つ。

愛甲石田あたりから丹沢の山裾を走っている。

何となく気分が良くすやすや眠った。

東海大学前で降りるとひんやり寒く何か別の世界に来たようなのぼせ感があった。

丁度昼だったので駅前の定食屋でランチを食した。

豚の塩カルビにトロかつおの刺身が組み合わさったランチメニューだった。味噌汁のほかおまけにババロアとオレンジジュースが付いていた。これらで840円。

旨かった。

それから丘の上のキャンバスに入る。

いいところだなあ。こういうところで生活しないなあ。

200冊ぐらいの書物から50冊、大学生が是非読むべきだというものを小説家や詩人、文芸評論家の方々が書評をしながら選び出すという催しだった。

200冊は大体題名は聞いたことがあるけどほとんど読んだことがない。

中学の頃、新潮文庫の100冊を薦められたけどとてもじゃないけどこなせなかった。

どかっと100冊と示されてもなすすべも無く挫折した。

小学生の頃はよく読んだが、中学生の頃から失読症になり、殆ど本を読んでも頭には入らなくなった。

今となっては、この原因が、地磁気欠乏と揮発性化学物質だろうという見当が付いた。

これら200冊の中に、この問題に言及しているものはなさそう。

これらの本を読んでも自分の根本問題が解決するわけではなさそうなので、読まなくても良かった、なんて思うのだ。

気付くのに、読んだほうが速いか人から聞くほうが速いか科学をやったほうが速いか、と今振り返ると思うのだが、どうなんだろうと探索している。

多くの文学作品は、この地磁気欠乏症や揮発性物質についての言及が無いように思われる。漱石にせよ小林秀雄にせよ、ご自身その問題に苛まれているように思われるが、表向き解を表出されていない。

三島由紀夫の金閣寺は、近いものがある。禁欲を強いられている修行僧が、金閣寺を見てむらむらしてきて淫乱さを覚え、ダブルバインドに苛まれ放火してしまうというのは、何かしらのほのめかしなのかもしれない。

小林秀雄の骨董への傾倒もおそらくその問題の答えとなっているのかもしれない。

かなり明示的に内田先生や森千里先生は言及されている。

このお二人の著作もノミネートされて頂きたかった。このお二人を読めば文学の見通しが立つというものではないか?

人がその本を読んでみたくなるような書評の仕方というのはこれまで殆ど意識してこなかったが、改めて勉強になった。

どかっといきなり50冊、100冊読め!といわれてもやる気を無くす。

自分でまず視点を持ってフレームワークや領域を抱いて、その範囲でそれらの作品がどう絡んでくるかをひとつひとつ舐めるようにしていかないと長続きしない。

目的意識を持ってそこから外れるものはどんどん切り捨てる。そうしないと時間が足りない。すべて何百ページを読んでいたら埒が明かない。

1, 2ページ読んで自分で読めるか読めないか見切りをつけたほうがいいのではないか?

明治時代に大流行したということを伺い尾崎紅葉の金色夜叉を購入して読んでみた。

読めなかった。

やはり、翻訳しなくてはいけなかった。どう翻訳するかというと、文中にバッファーを追加する必要がある。副詞を添加することによってようやく自分の息遣いにぴったり来る。

そのままだと息が詰まってしまう。よくそんな息をこらして書かれたものだなあと思う。

人それぞれの肺活量によってバッファーを添加する量が違うだろうけどそういうものを自動挿入して、すべての文章が自分にとって読みやすくなるようにすると、嬉しい話である。

まあこうすると、文章を読んではあはあしてお腹空いてご飯食べてぐっすり眠れるだろう。

まあ文章というのは経済の拡大均衡を目指すものである。

読んでまた別のものが欲しくなる。

小林秀雄は、見たもの聴いたものを美しい文体にして表現されるというが、それを読んだ人は、また別のものがどうしても欲しくなる。一方村上春樹は、カーッと一気に読めて、その別のものを所望せずに済む。

そこで好かれるか嫌われるかになるのだろう。

とシンポジウムの進行とは別に考えをめぐらせていたときもあった。

とにかく、その時間帯は、何となく高揚しているタイムスパンが長く、ドーパミンを使い過ぎたのか、事後、気分のダウンが激しかった。

帰り際、知人と挨拶を交わし、キャンバスを出て、2時間ほど歩いた。

山裾を近くに見ながらの散策は気持ち良かった。

伊勢原の駅までたどり着き、五目ラーメンを食して、岐路に就いた。

新型4000系急行の車内で一時間過ごし、頭がぼーっとした。

もっと詳細については、時が経たないと整理できない。

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2008年5月30日 (金)

泥のように10年間働きましょう

例の、10年間は泥のように働いて、次の10年間はよく勉強して、という話題で沸騰しているのを覗いてみた。

そういう発想は、一昔の古いもので国際競争力をなくすなんて言われているが、やはり、組織の論理というか、何が何でも組織は生き残ろうとする力が強く働くから、古い考え方で充分じゃないかと思う。

最新の技術とか進歩が激しいと言われるが、用途は日常の事務手続きと情報活用であるから、古い考え方で、着々とキャリアを積み重ねていってもいいのだろう。

 また別の考え方をして、

ITというのは、多少人口が膨れ上がった団塊ジュニアのためのジョブクリエーションであろう。

今の若い人々は、人口が少ない分、昔からある枯れた利権が確固たる伝統産業で食べていけるから、古い考え方で充分じゃないか。1960年代に戻るんだよね。

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何だか寒い日

昨日、今日とまた寒い日が続いて憂鬱だ。軽い頭痛と肩こりで気分が乗らない。その頭痛と肩こりは繋がっている感じになる。

そういった中、お金の話を昨日今日として何となく物悲しいが、冷静にかつ楽しく、淡々とこなさないとダメだ。こういう話をするとどうも理屈っぽくて、相手の方も構えるので、話が乗っていかないし、やはり頭がぼーっとしてくる。

そういうことにめげず、少しづつコンスタントに進めていこう。

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2008年5月29日 (木)

空間より時間

悩むときとか試行錯誤するときというのは、得てして空間に絡め取られるようなものである。

空間的広がりの中、見えるものをしらみつぶし的に彷徨い続け、結局身に成らない。

空間に展開する様々な事象に目を奪われ、それに操られて自己解体していく。

得てしてこういうときというのは、時間感覚を喪失している。

手当たり次第追い求め、逐次記憶に残らずエピソードとして残らない。

時間が死んでいる。

リズムを喪失している。

記号や物を扱うとき、自分のリズムがなくなって息苦しく時間が飛んでしまう。

見通しが立たなくなる。

すべて時間の中で空間を切り取らなくてはダメだ。

空間にべたっと吸い寄せられて、頭がぼーっとする。

そうでなく、こちらがリズム運動をしながら空間を動かさなくてはダメである。

空間は止まっているから誘導的に自分が止まり時間感覚が喪失する。

そうではなくて自分のリズムを取りながら、空間を自分のリズムに引き込むしかない。

数式でも回路図でもゴルフクラブでも。

死者を踊らす蘇生術というものか。

フランケンシュタインを生み出す力というべきか。

自律的にリズムを持つものに対しては、自分と同じリズムでないとちょっと難しいと思っている。

自分のリズムに誘導することは出来るかもしれないが相手が不満だろう。

自分のリズムは忘れてしまいがちである。

他者から思い起こして貰うしかない。

人間を含め磁石も他者なのである。

他者とはいわば磁力であろう。

生き物でも無生物でも磁力を持てば同じように感じる。

備前焼は、鉄分を多く含む粘土で焼かれるらしい。

鉄の中に磁石が含まれる。

磁力が沢山出て使用すると気持ち良いのだろう。

備前地区は、佇んで気持ち良い場所である。

一番電車の本数が少なくなるが、妙に間が持てる区間である。

人があまり通わないのだろうか?

骨董を馬鹿にしていたが、実は、粘土の中に磁石が仕込まれていた。

それを手でこねくり回すというのも理解できる。

骨董に傾倒するというのも一つの解なのだろう。

磁力が時間を変形するというモデルはマクスウェル方程式に含まれていない。

あくまで決定論的に磁力が時間発展する。

磁力によって時間は変化しないのだろうか?

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2008年5月28日 (水)

妄想と自由意志と決定論的因果律

いやあ、思わず引き込まれる話題ですねえ。

磁石の話から入りましょう。

磁石が人類によって発見された経緯は、そこに近寄ると気持ち良くなる岩石があって、それに鉄を近付けるとくっ付くというものだったらしい。

心脳問題の答えから電磁気学が始まっている。

子供のとき、磁石が欲しいなあという欲求に駆られたことがあった。円筒形のスピーカについている強力な磁石を同級生が持っていて、自分も欲しいなあ、と思った。

しかし、それで気持ち良くなるというような自覚はなかった。

そういう身体的な感覚の世界は小学生で終わりで、中学、高校、大学、社会人とは、記号と数式の羅列に見舞われることとなった。

皮肉にも心脳問題の答えから遠ざかってしまった。

妄想も磁石がないと出来ない。

大陸、ピップエレキバン、大柄な人、すべて磁石である。

これらの周りに佇むことによって初めて妄想できるのである。

いわゆる妄想は、物心付くことから始まり、14歳でぴたっと忘れてしまった。色々なことをイメージして一人物思いに耽る楽しみが無くなった。ここから人生の暗転が始まる。

丁度、磁石を感覚レベルから記号レベルで捉えるようになったときと同期している。

シンボルの呪いに掛かるのである。

そういう妄想が無いと、自信は無くすし、生活に潤いが無く、無味乾燥であって、エピソードとしての体験が得られなかった。そこから自分探しが始まるのであった。

時折関西に赴いたり大陸に渡航することによってその妄想が復活するのだが、その妄想を意識的に獲得するすべは持ち得なかった。

10年前に関西に訪れて、関西に行けば妄想が得られることを意識レベルで理解した。

そこから理解が進み、車、鉄の塊、岩石、神社、磁石と関東でも意識的に妄想を想起させる手段を見出した。

妄想と自由意志は、等価である。生きた心地、現実感、自信、すべてプラス志向である。

そういうもの意識的に獲得する方便としての決定的因果律は磁石の存在で説明できる。

自由意志を獲得するには、適度な強度の磁石に接近するしかない。

そういうものなしで獲得するのは不可能であるという決定的因果律がある。

と私個人の主観から妄想と自由意志、決定論的因果律を述べてきたが、客観的仮想としての出版物では、どう展開されるのか?

拝読させて頂きたいです。

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記号という呪い

複雑な数式やノードとアーク、その他諸々の記号から構成されるネットワーク図を見ると気分が滅入ることが多い。

地図や路線図は、そうでもないのだが、電子回路図を見るとどうも気持ち悪くなる。

そうなって頭がぼーっとして記憶が飛んでしまう。

数学や算数が苦手なのと同じ部類に入るらしいが、「数式恐怖」という研究テーマが心理学であるらしい。それは読んだことないが、今日、机に座って何となくその理由が判った。

一度に記号情報がランダムに目に入ってきてパニックに陥って、気分悪くなってぼーっとして記憶に残らなかった。

一方、地図とか路線図はそうならない。何故か得意というかそういうものを見て間が持てるぐらい好きなのである。地図や路線図が苦手で東京の交通網に疎い方がいるが、私は殆ど頭に入っている。

にも拘らず、回路図が苦手でありそれを見ると気持ち悪くなってしまう。

ようやくこの謎が解けた。

一度に見るのではなく、入力、出力、方向性、因果律、同時性、排他性、強さ、時間推移をシーケンシャルに順序良く捉えていけばよい。それだけのことだった。

シンボルの呪いを解いたのだが、何故路線図や地図は問題なく回路図がダメだったのだろう?

地図や路線図は、物心が付く頃から親しみ好きだった。始点を先に視点が合わされ、線を通じて順番に視線が移り終点へと至るような見方をしていた。これは問題ない。

見ている環境がお母さんの傍、ということもあったのだろう。

しかし回路図は、そうやって見ていけばいいのに、色々な視点と終点が同時に目に入って頭が混乱してパニックになって嫌になるのであった。呪いである。タールのにおいのする教室で教わったからなのかもしれない。

数式も、一度に右辺と左辺、分母と分子の様々なシンボルが同時に入ってきて混乱してきた。

右辺は、原因、左辺は結果という因果律のもとに、分子は、原因となるものが強く作用すること、分母は原因となるものを弱める効果があること、それが一コマ一コマ時間経過と共に進んでいく。

こういうことを思いついたのもお母さんの傍に似たような環境だったのかもしれない。

これをちゃんと先に教われば、数式嫌い、記号嫌いというように、シンボルに呪われなくて済む。別に塾に行かなくても、こつさえ分かればすぐ記憶できる。

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2008年5月27日 (火)

感情を文章にすると

感情の向くままに文章は書きやすいが、一度書いてしまうと、もう一度同じことを書こうとは思わない。気が済んでしまうからか?一度書いたことをもう一度書くのは面倒なのか?

重箱の隅をつつくという意味で、似たような感情を何個か書く場合があるが、微妙に違う。

文章にするということは、その感情とおさらばするようなものなのか?

すべて感情のまま書き連ねると仕舞いに書くことがなくなるのだろう。

書くとしたら、感情とは無関係なもの、すなわちかなり考え込んで書くようなものになるのだろうか?主観的体験よりもむしろ客観的仮想を書き連ねていくのだろうか?

この頃、あまりブログが乗り気じゃない。

書きたいことが枯渇してきた。

書きたいことはあるけど、何となく書きたくない。

人から聞いた話はあまり書きたくない。

あくまで自分で考えたこと思いついたことだけ書きたい。