否定の批評性
あるところでは、往復書簡が滞っている様子だが、こちらでは、なんとなくピンポンしている。
否定的な批評ばかりせず、身体を張って創造してそれを受け入れろ、というらしい。
どうやら否定というのは、後ろから弾が飛んできて自分だけ当ってしまった運のなさであると判明してきた。
生産というのは、消費者という敵に罠を仕掛け欺く営みである。徒党を組み、連携して事を運ぶ一員であるが、様子が違う。味方なのに敵と勘違いしてしまう結果となってしまった。
不幸にもその罠に自分ひとりだけ掛ってしまった。
敵を欺く前にまず味方を欺け、の格言通りまんまと嵌められてしまった。
みんな一緒に営んでいるのに何であいつだけ苦しんでいるのだろう。
理解されないのである。
苦しんでいる当事者としては、周囲が自分を傷付ける敵に見えてしまう。
だから一人戦線離脱して別の営みをおっぱじめることになる。
これが意識の問題、クオリア問題への没頭である。
大勢は、そもそもそういう問題は、端から存在しない。ただ大勢の敵と徒党を組んで対峙するだけである。
一方一人、得体の知れない敵を捜し求めてきた。敵と想定されるものはすべて否定的に批評して排除してきた。
様々な刺激を受けているが、その刺激の何が敵で何が味方か?精査してきたのである。
そういう中、10数年経過して、ようやく私のクオリア問題解決への目処がついて、その顛末を振り返る余裕が出てきた。
それを総括すると、後ろから弾が飛んできて当ってしまったというザマであった。
そういう社会人生活を送ってしまったのである。むしろ社会人とは別の人間だったのである。
軍隊において、敵と戦闘しているとき、味方の弾に当った場合、どのような補償をしてくれるのか?
参考になるのかもしれない。
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