アートとアーティスト
学校教育における芸術という科目では、音楽であれ絵画であれ、現在生きているアーティストによって創造されてたいわゆる現代アートというものにお目にかからなかった。
ベートーベンでもモーツァルトでもセザンヌでもピカソでも生存しておらず、彼らの芸術作品と彼らの肖像画という組み合わせでしか触れたことがなかった。
その当時、もし彼らが生存していたらどういう人なんだろうというイメージは膨らませてこなかった。
だから、作品があってそれらに触れても何一つピンと来なかった。ただ教科書に出ていた、という感慨だけだった。
しかし現代アートでは、クリエーターが得てして生存している。作品だけでなく、その作者も生身で同伴する。
芸術作品だけを見たり聴いたりするとピンと来ないが、生身の作者を目の当たりにするとまた違った現実感を帯びてくる。
そうも作品そのものより作者のキャラクターが多くを占めるような気がしてならない。
仮にその作品がすでに生存していないピカソのものだといわれたとしてもピンと来ないが、誰か生身のアーティストが創ったんだとすると、そのキャラというかオーラが立ち込める。
クリエータの人となりがあるが、作品の生成によってより活き活きしてきたのか、創ろうが創るまいがもともとそういうキャラクターなのか判らないが、もし創造によってより活き活きしてきたとすれば、その作品はいわば排泄物というか毒なんだろう。デドックスによって彼ら彼女たちが美しくなるのだから、まさしく作品は排泄物である。
だから排泄物だけを見ても良く判らず、排泄者そのものを見て、そういうカタルシスを実感することになる。
その生き様を見て、自分に反映させることがアートのたしなみなのではないかと考える。
アーティストには寿命がありアートは未来永劫残るのだが、残されたアートはどのように鑑賞するのかその手立てがなくなってしまう。いわばその排泄物が残されただけで、何のことやら判らなくなるのだが、それを想像するのもリテラシーとしてあるのだろう。
排泄物として残った、スザンヌやルノアールの絵を見て、彼らの人となりをイメージするという運びになるが、そういう見方は、現代アートに触れて初めて理解したことになる。
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