世の中で言われていないこと
最近、表現という営みに絶望感を覚えている。
日常の世間から聞きだせず、自分の感覚と考察によって掴んだことがあって大喜びだった。
じゃあ、これを表現してみようというと簡単にいかない。
得てしてこういう知識というのは、判る人には判っていてあえて隠蔽されているのではと勘ぐった。
目に見えないしはっきり聞こえるものではないし、原因が良く判らなくて、困ったことがあって、それを直感と熟考によって識別可能になった。じゃあそれをおおっぴらにしても良いのかというブレーキが掛かる。
世の中というのは、触覚、聴覚、視覚、味覚、熱感覚という五感で識別できないことをいいことにして営みが展開されている。
第六感で識別できる人がいるとしてもそれは、似非科学であり、非合理であり、気のせいであり、主観的であり、病的とみなされ世の中相手にしない、というような慣習のおかげで成り立っている営みがある。
自分も含め、そういう営みで立場がある人を冒涜するのではと考えられる。
表現の世界を見渡しても、やはりそういう営みを保護するスタンスなのである。
たからこそ、自分が今まで気付かないでいたり、あるいは、自分の直感と熟考に頼らざるを得ない。
そういった中、素晴らしいとか最高だとか公式に認められたとしても、いまいちありがたみがない。そうやってもてはやされている人を見ても魅力を感じなくなってしまった。
あくまでその営みのパラダイムの枠内に限定されるのである。
困ったことは、すべて自分で抱え込んでお互い流通させない。孤立だからこそ営みが成立しうる。
こういう状況で、表現というものに絶望感を覚えた。
営みの枠内での表現は、自分を分裂させることのみ担保される。
施す側も施される場合も、あまり嬉しさがない、という世界も想定されるのである。
こうやって躊躇しながら記述すると、いまひとつ良く判らなくなっている。
ある優れた表現の判定基準のひとつとして、ある特定の人しか理解できないような隠蔽が施されている、ことにあるというらしい。
そうすれば、その営みのヒトビトに冒涜しないとみなされ、抜け道として許容されるのか?と思った。
こうなると、表現に一筋の希望が見えてくるのである。
あくまで早とちりなのか?
しかし、営み側が、表現を許容するにしても、あれぐらい込み入っていれば、判る人は極限られているだろう、なんて予想すること事体、施される側をなめている、と腹立たしいのである。
そうするとますます表現というものに絶望感を覚えるわけにはいかない。
当面この葛藤は継続するのだろう。
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