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2008年10月10日 (金)

ノーベル賞文学賞と芥川賞

芥川賞を受賞していない作家がノーベル賞候補と騒がれ、日本の文壇は、世界的なものを認めようとしないとか、5000程度の読者しか集められていない、という閉鎖性が取りざたされるが、芥川賞もノーベル賞も同じようなものと考える。

さまざまなしがらみがあって最大限のしがらみにかなっているものが選ばれる。

世界的な人気があったとしても組織的な団体のしがらみに反するものは、駄目らしい。

その作家の作品を読むことによって、さまざまな組織が潤うことが必要とされるだろう。あの作品を読むと、色々なものが所望される、というのでなくてはならない。その作品を読んで、ああすっきり、ああ満足では、読者はうれしいが、組織的団体としては困ることが多い。

意識の問題を解くと600ノーベルということを言われ、安っぽく感じてしまったことがある。

真正面に捉えると、それだけ解くことが難しい、となるが、解けたとしても難しいことが起こって収拾が付かなくなる、というようにも取れるのである。

意識の問題を解いてしまうと後は解くべき問題がない、つまり以降ノーベル賞に値するものがなくなり、効力をなくしてしまう。

だから世界的に受ける作家というのは、どうも600ノーベルに値するほど素晴らしい、ということである。しかしそういう作品に与えてしまうと以後続かないのであろう。

たとえば、生命現象が解明され死者が復活するような知見が発見されたとする。おそらく600ノーベルに値しよう。しかし現状授与されるのは、1ノーベルである。生命現象の解明に期待されるといいつつその知見だけでは、生命現象は語れないばかりかハエ一匹創造できない。

幾らもてはやされても生命とはかけ離れたもの、つまりゾンビなのである。死者である。

主観的体験がないのである。

こういうことを考えていることに平行して、年頃の女性に読書好きだと褒めているブログを思い出した。彼女は活字中毒という。

思わず苦笑してしまう。言われたご本人に失礼だろう。

活字というものの属性を考えたら、どういう行為なのか想像は可能である。

...

つまりゾンビにしないと受賞は無理ということになろう。

またとある受賞作家の方を思い出した。生き生きとしていて割り切れないことが皆無のようなのだが、それではやっていけないので、自己解体にいそしまれているという。

生きている人が、そういう賞をもらうと、素のままではやっていけないのである。

どうも小さい頃からノーベル賞は凄いと刷り込まれてきたのだが、最近少し見方が変わってきた。

確かに凄いことは凄いのである。しかしなんだかなあ、ということも出てきた。

2つの世界があって、一方の世界では、素晴らしい、とされるのであるが、もう一方の世界では、とほほ、である。

残念ながら、とほほ、と言っていられない。ここに、とほほ、が畳み掛けて襲ってくる。

内田先生、ノーベル文学賞も芥川賞も同じですよ。

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