2008年7月 1日 (火)

モンスターペアレンツ

今晩10時からフジ系列で始まったテレビドラマなのであるが、気になった。

担任の教師の関西弁が矯正されて標準語にならない限り娘を小学校に遣らない、というモンスターペアレントが出てきた。

これは、理不尽とか非合理とか無茶だというのが政治的に正しそうだが、どうもこの場合に限っては違うようだ。

東京の母親が関西人の教師を不安に思うように、関西の母親も関東人の教師を不安に思う。

せっかく幼稚園まで自分の母語で育てたのに小学校に入っていきなり異言語に曝されたらどうなるか不安である。ちゃんと勉強についていけるのか?いらいらして勉強が嫌いになるのではないか?ぼーっとしてしまうのではないかと気が気でない。

私ならそう思う。

だから結婚や子供を作ることに躊躇している。

母語的に関西弁なのに小学校の頃から東京弁に曝され嫌な思いをした。生まれて5年間関西に住めば、後幾ら東京に住んでも東京弁になじめない。聞いていていらいらしてくる。

本来なら人が好きなのに嫌いと思い込んでしまって実を結ぶコネや縁が作りにくくなってしまう。

東京にもインターナショナルスクールのように関西弁スクールというのができない限り、子供を安心して学校に通わせられない。異言語に曝されて自己解体して人嫌いになって漫画やゲームに浸りきりの人生になるのを想像するだけでいてもたってもいられない。

こういうとき親はモンスターになるのが当たり前である。平気で妥協してしまうと碌なことない。

幾ら武道で相手の出方を読むというような鍛錬をしたり、どういう言語にも慣れ親しんで入れ歯が合うように努力すればいいというのはきれいごとである。

こういうスタンスだから教育に不信感を持つ。

教育は海賊版じゃないと駄目。

精神医学もゴルフも業界独占型では駄目で海賊版を使って正解となる。

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2008年6月26日 (木)

群れるか?孤高か?

どっちが良いかといえば、群れるほうが良いに決まっている。

しかしあのまま群れたら、碌なことなさそう。

やっぱり、孤高で良かった。孤高になるしかなかった。

じゃあ本当に孤高になるしかなかったのか?

と最近思うのである。

うまくやれば、群れていてもうまくやっていけたのでは?

あるパターンを踏めば、そうなる。

そういう人は、五万といる。

そのパターンを踏めたか、ということだ。

踏めないなあ。

直近のご先祖様の振る舞い方に問題がある。

なんでも親のせいにするのは、はばかれるが、親がしかるべき対処をすれば踏めるということが確信できたのである。

世の中、親から自立しろ、と言われそれを信じてしまっているが、どうも違う。蛙の子は蛙である。いくら自由だ自立だといっても親と違う職業を持つと難しい。

うちは4代職業が違う。ひいお祖父さんは菓子職人、祖父さんは、文房具の問屋、父は、銀行員、私は、メーカの会社員。祖父さんが養子に入り違う職業の連鎖になっている。

何が向いているかというと、やはり食い物関係だな。舌が肥えているからね。

職業もそうだが、住む場所。

いくらピップエレキバンを持てばいいとはいえ、ここで子供を作って同じパターンを踏ませればいいかというとどうも心持たない。

先祖が培ってきたものに戻したいのである。

生理的に向いている職業がある。

孤高に走ってそういうことが判った。

生理的に向いていないところで群れていたらとんでもない。

失敗の原因が浮き彫りになる。

こういうことを書いておくと役に立てると思える。

職業選びの薀蓄としてね。

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2008年6月25日 (水)

ライオンとシカ

どうも世の中というのは、アフリカのサバンナと変わらないような気がする。

少数のライオンと多数のシカの群れ、というように構成されているようだ。

官民問わず胴元とか行政・立法・司法はライオンが取り仕切り、生産活動は鹿の群れ

である。

血気盛んなライオンと従順なシカ

法というのはライオンによって自分たちの主観から制度化される。自分たちが獰猛で狡猾だからそりゃやばいということでそれを抑えるような文面になっている。自分たちを自分で抑制するみたいな。

しかしシカは大人しいから、ライオンが想定するような獰猛さとか狡猾さがないから法そのものがシカにとってはスルーになってしまう。意味を成さない。

かといってライオンが獰猛さや狡猾さを発揮したからといって、法によって裁かれないようである。対象はあくまでシカであってライオンに仕向けられることはない。

ましてやシカがライオンを裁くこともありえない。

法はスルーされている。やっても裁かれないということもあるし、そもそもやることがありえないから裁かかれる機会も存在しない。

こういうことは思いもよらなかったが、何となく当たっていそうだ。

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2008年6月21日 (土)

玉虫色の記述

やって良いか?悪いか?の是非をめぐる記事があった。

記事に登場された科学者によると科学的には証明されていないが、過度に使用しなければ問題ないのでは、という見解だった。

では実際、お子様には、どうされているか、となると、月曜日から金曜日まで禁止、土日一時間ずつ使用許可、となっていた。

しかも子供さんは言いつけを守らないらしく、目の前でぶち壊したとの事。

過度にやらないこと、はこういう頻度らしい。

科学的客観性と感情的主観が交叉している。

科学者の立場から見て是非の判断を下さない慎重さがあるが、自分の子供に関する感情的な思いから、ぶち投げて破壊する。

我々は、どちらを取ればよいのか?判断に迷う。

科学的な思考に傾倒されている方は、客観的に害がないことが証明されていないから、使用しても問題ないだろうと受け取るし、感情に囚われがちな方は、ダメなんじゃないの、と思う。

玉虫色というか、普段の志向パターンから信念とか判断を決定付けるような記述なんだと思った。

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2008年6月17日 (火)

アンビバレント

日常世界において多くの人々といい関係を持ち、お互いじゃれあっている様子が描かれているにも拘らず、並行して、そういう仲のいい方々と、呪いとか死のロードとか悲観を語り合うことがあるらしい。

何か不思議だな。

和気藹々でまったりした仲間同士でそういう不気味な話題で盛り上がるのは楽しいのだろうか?

どうも腑に落ちない。

逆に、いまひとつ遠慮がちな相手とは、そういう話をしないで無難な趣味高尚を慇懃に語り合う。

呪いとか死とか悲観というのは、語り合う分には楽しいものなのだろうか?

話し合っている人同士は、暗くなることはなく盛り上がって楽しい。

内容がそういうものに集中するということは、やはりネガティブなことをお互い吐き出して気持ち良くなるという生理的欲求があるためなのだろう。

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2008年6月14日 (土)

第3者がいない生活の場

人それぞれ自分の思惑があって、それを基にして営みが展開されている。人が沢山いて、それぞれ思惑を全部通していたら成り立たないから、あるものというか多くの人に理解できる、つまり目に見えるシンボリックなものを思惑とみなして営みが展開される。

そういった背景のもと、結果として資源や成果の配分が決まり、あるいは能力の程度が決まる。

ひとそれぞれ、能力の解釈があって、集団としての能力、成員からみたものの能力、いろいろある。

しかし最近判ったのだが、その能力の解釈をめぐり第3者としての裁定機関がないことに気付いた。自分の生死をかける生活の営みにおいて、そういうものなしで何となく能力がその場の空気としてあいまいに定義されている様子だ。

その能力の解釈の議論は、第1者と第2者の間では、非常に困難である。一方が議論を持ち出したくてももう一方がそれを拒否すれば、議論はない。

3者にもって行きたくてもそういうものがない。

改めて、そういう中で生活を展開してたのかとあきれると同時に空しくなる。

書生論にかぶれすぎていたのだろう。

そもそもこちらが能力について様々な知識を統合してよしこれだ、正論だといきがっていても、相手の方は聞きたくないものである。そういう確信を持った時点で、オーラがみなぎりそれが相手に伝わってしまい、勘弁してくれよ、となる。

さあ、伝えようかな、というところで、相手の方は、周囲の人々と笑みを浮かべ楽しそうに談笑される。組織の温かさ、人間味あふれた関係、団結力、を提示され、正論とそういうものとのかち合いになってしまい、こちらからの発言する意欲がなくなってしまう。

疲れた疲労困憊されたお姿と、楽しそうな談笑による団結力によって当方が練りに練った正論が打ちかまされてしまう。

微妙な能力をめぐる議論を突端として話がとてつもなく大きくなってしまう。

周囲の人々との能力の比較から能力の比較のカテゴリの仕方、あるいは、能力が発揮できない原因へと自分自身が有する正論によって展開すると、やばい方向に行ってしまう。

だからなかなか実行に踏みけれない。慎重さが要求されるのである。

だからといってこちらが引き下がると今までの苦労が水の泡。

ここは大きく狙わないで小さな範囲で済ませよう。

相手の方に小さな範囲で納まるような係争点に着地するよう配慮しよう。そうすると聴いていただけるのではないか。

物事をモデルとしてすべて正論をぶち空けた上で、その後での意思決定法を別途、社会的影響度を鑑みて議論しようという戦略も考えたが、どうやらそういうことも無理そうだから、小さく小さな係争点を見出すことにしよう。

その小さな係争点を見つけるのが難しいなあ。

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2008年6月10日 (火)

格差と縁の強さ

例の事件で格差問題が取りざたされているが、どうやら格差が出るのは縁が強い場合と弱い場合があるからだろう。しがらみの強さである。

しがらみが強いほど格上げされる。

出て行くお金と入っていくお金がそれぞれ多い。拡大均衡である。

正論より縁である。幾ら倫理が正しくても理屈が正しくても縁が弱ければ意味を成さない。

勉強するのもいいけどまず縁を沢山の人々と作ることを忘れてはいけない。

強い縁というのは、将来的に見込みがある安定して持続する関係だろう。それがあるからこそ宵越しの金を持たなくても生活が成り立つ。拡大均衡のためには、そういう関係を維持しようとする力が働く。お互いしがらみを作って互助する関係を作る。

逆に縁が少ないと出て行くお金も入っていくお金もない。縮小均衡になる。

世代を見ると、年配の世代は縁が強く若い世代は弱い。

弱いがゆえに自分たちでルールが作れず、既存のルールによって自分たちが不利になる。

孤立して探求している人が多い。

私もそうだから縁が少ない。まあ一通り自己探求して満足したから縁作りに励もうと思うが、間に合うだろうか?

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2008年6月 9日 (月)

交渉をどうやっていくか

最近は、取りこぼしたものを取り返そうという営みで精一杯になっている。生活の潤いが消失している。何となく空しい。金の話は嫌だな。

色々交渉していくにあたり、どうやら、自分に不利なことを言われることを恐れているからダメなんだと思いついた。それを指摘されることを恐れて先に進まなくなっている。

発想を変えて、自分に不利になるようなことをどんどん言わせる。それでなるほどと思えば、それまでだろうし、相手の不利な側面を比較する対象が出てきて今後有利に進められるかもしれない。それによって価値がどういう基準で定義され、どう資源が配分されるのか理解できる。

こちらの瑕疵を受け入れると同時に、相手の瑕疵もとことん突き詰めていけばよい。そうやって比較対象をラインアップしていく。そこから比較してどうなのか?見極めることが出来る。

瑕疵の比較、メリットの比較の材料を双方で認識することが先決である。

まずは、ここから先に進めていけばよい。