2008年6月20日 (金)

ネットは空しいか?

私もネット中毒者というように多くの時間をネットで過ごすが、見直したほうがいいのではないか?というお達しを頂いた。

ネットを通じて他者と議論するのは、何となく結ばれていて孤独感を解消するような気分になる。私も数人の方々と議論をさせて頂き、何となく生産的な活動をしているように思っている。夜勤ですか?ともいわれた。仕事したつもりになっている。

実は、これは嘘だったということが濃厚だ。結ばれているのも錯覚であり幻想である。殆ど実を結ばない。

実を結ぶのは、フェース・ツー・フェースの生身の人間関係であろう。会社、地域社会、恋人、友人、生身の人々の関係によって生計の種が生まれるのである。

ネットに期待をしていたが、どうやら、期待できないと見ていいみたいだ。

どうも、生産者のほうが強くて使用者は弱い。

使ったら最後お仕舞い、という感がある。

設備には投資していないけど、時間を消費してしまった。

致命的な失敗を犯した。

ネットを捨てて街へ出よう。

でも結構ネットって間が持てるし、私の場合は文章を書くのが好きだから、有意義な時間をすごしているように思える。

こういうものを日々残していけば、生きてきたんだなあ、と実感できる。

判りづらいという評判を頂いている私の文章だが、私は、こういう文章を書いていて気持ち良くなる。読んでいただける相手のことは殆ど意識していない。好き勝手文字列を並べている。

思い浮かんだアイディアの整理である。

かえって他人に理解されないほうがいいこともある。

めちゃくちゃ訳判らないことを書いているとスルーされたほうがいい。

まあスルーしないでね、という気分もあるが、気持ち半ばというところである。

これらを生のご相手に面と向かい口で説明して差し上げると、殆ど理解していただける。つじつまがずれていることは決してない。話せば判っていただけるのである。

またネットにおけるお相手なのだが、選択している。読んでみて自分の頭に入ってくるものを、読み続ける。実際にお会いしたら、お互い理解しやすい方々だろうと思う。

幻想とか仮想現実といわれるネットでも実際の生の現実とも繋がっている。

どうなんだろう?

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2008年2月 8日 (金)

イナゴと巷の知見

Webで取り止めのないコメントを書く、ならず者をネット・イナゴと呼ばれる。

それが1001000と一挙に押し寄せるからイナゴといわれる。

非常に迷惑なものである。

とはいうものの、巷にあふれる情報も同じ側面がある。

お金を出して時間をかけて接したものの取りとめもなかったりあるいは遠回りになったりして面倒なことが起こる。

そういうことに対して、リテラシーがないとか思慮が足りないとか言われる。

判る人には判る、とも言われる。

色々な問題があって、原因を追究しようすると、まずは人に聞いたり書を読んだり論文を調べたりする。

それがあまりにも膨大な量となる。

色々な人が、ああだこうだ、という中、探求は底が深いとか、判ったらその10倍判らなくなるとか言われている。

あるとこに行って聞けば、一言で終わる。

そういうものが多すぎる。だいたい原因がはっきり知覚できないブラックボックスが多い。

そういう苦しみの時期が長かったから、怒っている。

粘着気味に怒りたくなる。

情報ケータリングのメカニズムというか、いやーだなあ、と思う。

怒りとともにニヤリとおかしくなる。

実名で堂々と表現する人は、遠まわしである。これは生活のためである。理解できる。

そうはいうものの受け手は困ってしまう。

こういう生活形態があちこちあるから世の中沈滞するんだろう。

棚上げにしたい問題だろうが、先生は答えていただけると期待している。

全部書かないで潜在的なほのめかしに留めるのが表現だというらしいが、そういうのに付き合っている暇と時間と金がない。

色々な問題が目に見えない形で次から次へと出現して忙しいのに、いちいち遠まわしな表現にお付き合いできないよ。

提供側も苦しいし消費者も苦しい。おかしな方向に行っているのではないか?

デタッチメントしてメタ認知されれば、当事者から離れた所から傍観できるのに。

当事者意識が強すぎる。

イギリス・コメディーではちゃんと突き放して自分を見ている。

こういうことは、リテラシーとして大方の人が持っているそうだ。

私は最近知った。だからこそ恨めしい。

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2007年12月 9日 (日)

パソコンのファンから出る臭いがお好きですか?

済みませんがすぐに思いつくことだけお答えします。

もう発言を止めようかと思いましたが、興味深いことを言われていますね。なんか熱くなりますね。

人に誤解を与えることは言うなとおっしゃいますが、養老先生によると、誤解するほうが悪い、とも言われます。

そのまま鵜呑みにする人はいないのでは。

「実は私はノートパソコンのファンがうなったあとで出てくる臭いはちょっとすきなのです。」

このご発言も大いに誤解を与えるのでは。

ファンから出てくる気体は何かしら良いもののように思わせます。

臭いが好きなことに関して健康上問題ありませんか?だから思わず脳内汚染といいたくなるのです。健康に良いならはっきりそう言って頂きたい。

私はこの臭いをかぐと気持ち悪くなります。

嗜好の問題で、好きな人もいれば嫌いな人もいるようです。好きな人は、パソコンにぴたっと張り付く形で長時間向かっているようです。

嫌いな場合、生活そのものが脅かされることになります。

パソコンは強制的に使わされます。

出来れば使いたくないのです。

こういう好き嫌いがあるから、断定的に嫌だといっているのですから、単なる嫌悪の表現でこれで人に誤解を与えることはないはずです。

色々好き嫌いがあって何かが嫌だというと、この発言に影響されて皆嫌いになるのですか?

いい加減な根拠をそれらしく言うから人々に誤解を与えるのですか?

嫌な人は避ければいいし好きな人は大いに吸っていただければよい。吸うのが正しいということではありませんよね?

実験の詳細や正当性についてはおいおいお答えします。

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2007年9月 2日 (日)

会議が充実しない理由

会議を効率化するためのソフトウェアがあるらしい。会議の効率化をそのソフトを使うことによって効率化するという狙いらしいが、極めて意識過剰であり根本を解決しないと私は思う。

最初から議事録を書いて、そこに書いてあること意外、話を発散させないようにするという。

しかしよくよく考えてみると、会議室の環境が悪化しているといえる。

最近会議に出るとぐったり疲労感が高い。終わった後、暫く何もやる気が起こらなくなる。

参加メンバーが全員ノートパソコンを持ち込んで無線LANを接続させている。

この状態が各メンバーの神経活動に悪影響している。呼吸するための神経が充分活動しないから、窒息気味になって倦怠感になる。

これでは、会議に集中できない。

そういった中で、一つの話題に集中できなくなる。頭がぼーっとしてどういう話の展開なのか追跡できなくなってしまいに話が飛んでしまう。あっという間に2時間3時間経ち、何を話したか誰も覚えていない。そういう会議が増えてきているような気がする。

そういうことは見えないことだけど、参加メンバの倦怠感を見れば原因が推測できるのである。

こういう根本問題を解決しない限り会議は充実しない。

Shut off your mobile pc !

それを止めないで、いくらシステムでナビゲートしても駄目ではないのか?ナビゲート方法の組み合わせ数が収束せず、かえって硬直化して面倒くさくなるのが落ちだ。

こういうソフトを会議効率化と称してスタフ部門が導入して現場に無理やり使わせるようになるだろう。実に迷惑な話である。

税金を投入してこういう面倒なソフトウェアを開発して回収圧力がかかり、ごり押し導入が図られ現場が迷惑するという現象にいとまがないが、そうやって面倒も増えるしストレスも掛かるし効率は上がらないし、やる気もなくなって元気がなくなる。

そういうものをベンチャーだと持てはやしても、開発側も利用側も長期的に見てお互い不幸になる。一時的なお祭り景気に踊らされてはいけないのではないのか?

スティーブ・ジョブスに似てきたなんて持てはやさないで、若きCEOにきちんと苦言を呈さないと無責任でしょう?

とはいうものの社会風潮として不確定な偶有性が持てはやされているから、どんどんやってしまえばいいのかな?

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2007年7月22日 (日)

実名でネットで匿名は止めよう!という発言

どうも実名で書けるのは、様々なステークホルダとの談合に談合を重ねた結果を書いているからだと考えている。それぞれステークホルダに関わる一個人は、非力だから、強力な表現者に委任している。自分たちは、ネットで匿名は止めようといいたいところだがいえないので代理で発言して貰うのである。

その発言に対する非難をその人に集中させる。お客様苦情係なのである。

その非難のサンプルを出してみたい。

組織がバックについているから実名出せるのだろう、となるのである。またしても原理主義を否定するのも原理主義ということになってしまった。

実名をさらけ出すことは一見正々堂々として実直で素晴らしいと思われるが、立場的なスタンスから出来るんだ、という嫌味となるのである。

マスコミ、司直も匿名集団である。組織的な力を信じているからそこに集散するヒトビトは匿名で強気になれる。これと同じようにネットでも匿名性のパワーが信じられているのではないのか?

と僻み根性が出てしまったというものの、

実名による発言も、匿名の多数の意見の反映だから、所詮匿名である。実名による発言者も、多数の匿名者の意向だからといって当事者意識がないのである。匿名者に責任転嫁しているのである。

大多数の匿名者が、1人の実名者に責任転嫁するように、1人の実名者が大多数の匿名者へ責任転嫁する。責任の所在が宙に浮くのである。ぐるぐるタライ廻している。

実名は、単なるシンボルであり、人間ではない。哲学的ゾンビなのである。

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匿名の是非

ネットにおける匿名発言の是非を巡って議論が戦わされているが、匿名は必要だろう。いざというとき面倒なことになることが多い。手間隙掛かる。コストの問題である。

いくら正論を言ったとしても、世の中論理的な整合性だけで動かない。表現が複雑化すると、意図するように読み取って貰えないことが多くなるだろう。文章の一遍の揚げ足を取って、あああだこうだと騒ぎ立てる。それで対応にコストが掛かるのである。

周囲は、誤解を受けるようなことを書くから騒がれる、と冷たいのが普通である。事細かな議論を全ての人がフォローするとは限らない。

ある人は、自分が認めたヒトビトの前では、かなり毒舌を吐かれるという。その毒舌を拝聴できるのは特権であろう。それがどれだけ酷いものかということは、判る人には想像できるかもしれないが、あえて書に露出しないという。

結果的に、内輪で酷いことを言うのと、自分1人篭って独り言を言うのと、ネット上で匿名で言うのとは変わらない。世の中にそういう見解が存在しているということは、表出されようがされまいが同じである。

実名で表現している人も表ざたの表出とは逆のことを仲間内で大酒喰らいながら言っているだろう。それとインターネットの匿名記事とどれだけの差があるのか?

そういえば、新聞や週刊誌の記事は書いた人の実名が出ない。また犯罪を立件した検察官の実名も出ない。理由はやはり色々問題があるからだろう。ホリエモンを立件した検察官の実名が出たら本人も生活どころではない。だからネットでの匿名を咎めることが出来るようになるにはまず、新聞、週刊誌、検察官の実名を公表するのが先ではないのか?

問題は、ネットにせよマスコミにせよ司直にせよ、他人への異議申し立てを実名でやることの難しさだろう。

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2007年6月13日 (水)

ネットの効用

先生という立場の方に生身で面と向かいお会いすれば、思ったことをそのまま考えることはめったにない。

大方の場合、先生のおっしゃることをうんうん頷いて伺う。内容を吟味して、それはおかしいとか違うと一瞬頭を過ぎったとしても、それについて、こなれた時間の間、考える余地はない。その瞬間だけで忘却のかなたに追いやられる。

しかしネットの世界は違う。面識があるにせよないにせよ、読み進めた文章に素直に感じて思って書くことができる。そして匿名で公開する。相手も知らないし無論自分も知らない。

異議申し立ては意外と筆が進む。高揚してきて書きたいことが思い浮かびやすい。

相手のことを配慮して書かない。自分の思いがままである。

仮にメディアに出す場合、そういうことが許されるのか?大抵は、業界の人間関係を慮り、言いたいことも言えないのではなかろうか?色々立場を慮りそれらしい文章にしようとするだろう。

考えが断片的になり、高揚感が持続しないし途中で忘れてしまいがちである。文章が大人しくなってしまう。肝心なことが埋没してしまう。

好き勝手調子に乗って書くと間違いがある。それは当然である。それは誰かが間違っている、おかしいと言えば良い。そういうものに身を委ねるのである。そこでやばかったらやばいと思って修正すればよいし、いや違うと突っぱねればよい。

自分の感覚からでてくることをそのまま書いているのだから間違えようがない。間違いというのは、感覚的にその人の肌に合わないだけではないのか?

表では建前のみ許容され、本音は裏でしか言ってはいけない、らしいが、自分はどうも相手の本心がわかる性質だから、表も裏もないのである。

表と裏をきちんと区別しないと成り立たないものなのか?

そうではなさそうである。表はさぁっと流す程度なのかもしれない。表でリキを込めるのは野暮だと気付いた。力は本音で裏だからである。表はすかすかのスケルトンだからそれなりに対処すればよい。

表で情熱を込めていたらそれこそ裏と同じである。

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2007年5月17日 (木)

ディスプレイという他者

最近は、デスクワークする人は、ほとんどディスプレイに向かっている。これにうまく向き合えるかどうかで、人生決まるのではないのか?

自分は、うまく向きあえない。どうも気持ち悪くなる。

文字列を見ようと凝視して、それからなんだろうと考えて意識をこめると、呼吸が止まってしまう。そしてあえぎになる。体内で酸欠状態になると危機回避のために強制的に強く息を吸い込むのがあえぎといわれる。

これを繰り返すと、頭がぼーっとして気持ち悪くなりやる気が失せてくる。

人によっては、ディスプレイを眺めると、元気が出てきてやる気満々になることがあるのだろうか?

そんな人はいなくて、とにかく幼少のときからこっぴどく言われた我慢をしているのか?我慢強い人がうまく行くのか?

神社でお祈りするとご利益があるといわれる。

まず神社に行き、社の前で、鈴をガラガラと鳴らしてパンパンとカシワを2回打ち、一礼する。礼をするとき願いを込めると同時に息を止める。そのとき、ふわーっと息を吸い込ませるような力を感じる。これが気持ちよい。

あえぎには、ならない。

これが、神社仏閣のご利益だろう。

生活の場所によってはいつも、願いを込めると、ふわーっと気持ちよく息を吸い込ませてくれるところがあるはずだ。そういうところに住める人は幸せだ。風水が良い場所とされるのだろう。

意識して考えて息を止めると、あえぎになる。毎日がこの生活だから、不毛である。

何とかならないかな?

ここに技術革新の目があるだろう。

最近のテレビ番組は、うるさくなっただろう。静かな番組が減っている。年配の方が怒っている。

巨人戦の視聴率も一昔と比べてかなり落ちているという。ピッチャーが振りかぶりボールを投げる瞬間、息を止める。そのたびに吐き気を伴う息苦しさがある。

注意深さを要求する物静かな番組は、視聴者にとって耐えられない。いくら仕事でディスプレイに向かっていても、家で我慢してまで見ない。

声のでかい芸人がわーわー言っている番組が多い。そうやって脳幹という古い脳に働きかけがないと、息ができないのだろう。ディスプレイを工夫すれば、物静かな番組も見れるはずだ。

ブログも物静かな文体では、なかなか読んでもらえない。だからおばちゃんぽくうるさい文章がもてはやされるのだろう。

熟慮に熟慮を重ねた文章というのは、インターネット上で読むと息が詰まって読めない。リズムが無い。

紙の時代は、静かだし、ほとんど神社みたいなところばかりだったから、小難しい文章を、ゆっくりたしなめることができただろうが、このノイジーな生活環境では、とてもじゃないけど無理な話だ。

わーっと感情に訴える文章じゃないと相手に通じない。

紙文化の人は、いまだ懐古趣味があり、そのようなおばちゃん文体を下に見るような傾向があるが、それは時代錯誤である。うるさい時代には、よりうるさくないと、人に気づいて貰えないのである。

私は、この状況が良いとはちっとも思わない。神社仏閣のような森の精が漂うようなところで原著論文をたしなみたい。

いままでは、ディスプレイという他者に自分を合わせようと努力してきたが、むなしいかな無理である。今度こそは、ディスプレイが自分に合うように進化して貰いたいものである。

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