2008年6月30日 (月)

呪いもいいものだ

漫画は呪いの一種だと考えている。自分自身読み続けられない。

途中で途切れてしまう。

登場人物の漫画的な描像は、不気味であり、怖くなってくる。読むと居付いてしまって息苦しくなる。こういう意味で呪いである。

文字も漢字も呪いである。偶像崇拝がタブーな理由がそこにある。

漫画は登場当初、忌み嫌われたという。今となってうそのようだが、初めて接すると違和感を覚える。そういうものである。

目新しいものへの適応不足と揶揄されるが、いわば死者と対面するようなものだからぞっとする人がいて読むと馬鹿になる、となるのであろう。

死相と戯れて何がいいのだろうと思う反面、そういうものと何時間向き合ってもへこたれないのも凄い話である。

普通だったら気が滅入るのだけどそうじゃなくってかえって活き活きしているから凄い。

現代そういうものと向かわざるを得ない中、そういうノウハウは是非とも得たいものである。

そういうところから漫画家というのは崇拝の対象になるのだな。生と死との境目を彷徨う神聖な立場に多くの人々が畏敬の念を示す。

こういうものが、爆発的な人気を博するのは、日本特有なのか?世界的に普遍なのか?

私としては、こういうものと揶揄したいが、この世の中生きていくには揶揄しているだけでは済まされないような気がする。

大勢の人々が賞賛するベストセラー漫画家に違和感を覚えいまひとつ距離を置いてしまう心理状態になったが、よくよく考えてみると呪いへの憧憬というものが、この日本文化に見え隠れしているものなのだと改めてびっくりした。

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2008年6月29日 (日)

創造性について

最近創造性豊かにというフレーズが巷を席巻している。

創造性を求められることがある。

すると、自分たち訊いた者からすると、何かしら新しいオリジナルなものを考えたり創ったりしようとする。多くの人々は孤立して、知恵を絞った。

これだから駄目である。

創造性というのは、創造的なものを見出して取り出して流用して換金することである。

これは一人ではできない。

一人でできるとしたらせいぜい種を見つけるぐらい。

その種をチームを組んで見出して流用して換金する。

チーム力である。

ピカソもモーツァルトも個人の創造的な力で名を成したものを思っていたが、実は違う。たまたま周囲の人間がうまくマーケティングしたから今日広く伝わる。彼らの作品が何故いいのか、実感を伴わないし、根拠が判らない。なんとなく良いものになっている。

チームプレイをしただけに過ぎない。

創造しようとして一人知恵を絞ることは搾取されることであり疎外されることである。

徒党を組まないと何でも実を結ばない。

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2008年6月28日 (土)

楽しませるより必要性

表現は、人を楽しませるためのものだという念頭の元に進めていくと煮詰まって嫌になる。そういう時、前立腺をひっくひっくさせれば笑いが出てやり過ごせるが、その場しのぎにしかならない。

とかく楽しませるのは、辛い。楽しませるというのは、日頃の嫌な日常を忘れさせ、一時の逃避体験を提供する、ということだろうけど、自分がそういうことをしないからいまひとつぴんと来ない。

逃げるというよりは、徹底的に考え抜き打開策を講じる。だから逃避の一時的な快楽というのは良く判らない。

そういうものが世の中で要請されているのか?

もうそろそろそういう無駄な時間を過ごす人なんかいないんじゃないのかと思う。

やはり、必要性に駆られるような表現しかない。

いろいろ困ったときこうすればいいというようなストレートな問題想定と解決の一覧集のようなものである。

何か困ったとき、それをどういうアプローチでどう解決したか?が手っ取り早い。

とにかく問題山積だからいちいち逃避にふける時間はない。無駄である。

早急に解決したい。

著名人のブログにコメントを書き込むのは、あくまで問題解決のためである。利用されていただいても宜しいからとにかく解を頂きたい、というようなバータ取引である。

体調改善法を意外な分野の方から頂いたのもこの方策である。

もしまともにお金を払って訊いたら、その後本人は、医事法違反で捕まってしまう。

そういうのは、ただで伺うしかない。

正攻法で訊いても解決しない。

問題解決の方法を自分たちが有利になるように開示したり隠蔽するのは、独占禁止法違反とかカルテル違反、反独占禁止法そのものだが、そうなっていない。

認可制で競争がないからこうなってしまう。

どうも自分は、現実逃避させるような表現をする気にもなれないしましてはやり方が判らない。せいぜい前立腺をひっくひっくさせるだけ。これも書き込んだおかげで導出されたアイディアである。

金のことを考えるとかえって問題解決から程遠くなる。

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2008年6月27日 (金)

エリート文化人の残尿感

深刻な問題があって、語り尽くしても尽くしえず結論が出ない。こういうときには残尿感を残して棚上げするのがエリート文化人のすべ、というらしい。

問題が問題なので前立腺肥大とかやはりよろしくない連想をしたが、どうやら違うようだ。

私にとってまだ早いのかもしれないが、残尿感によって前立腺がマッサージされ丹田に力がこもり倍音が出て気持ち良くなる、ということを思いついた。

呪いのような困難な議論の末に残尿感でマッサージする。

そうするとお互いミラーニューロンの誘導効果によって周囲の人々が巻き込まれる。

こういうのは時代性や立場を超えて普遍である。

こういうのを女子大の学生さんに教えることは不可能だろう。

また残尿感もある程度齢を重ねないと感じ得ない。

そういうところで時間性というものがあるのか。

だからそういうもんだ、としてしまうと何だか、もうお仕舞いかあ、と寂しくなる。

前立腺マッサージだとか言うとその場は可笑しいが、あとが続かない。

物事を語るというのは、侘しい。

そこで、ああそうか、と納得するのは良いのだが、さて次にどう発展させるか?

で行き詰ってしまう。

メタでメタしていくと行き詰りそう。

それで詰まんないなあといらいらしたところでひくひく収縮させる。前立腺マッサージですっきり。

この繰り返しだな。

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2008年6月23日 (月)

生活の潤い

どうも、メタ認知に傾倒するということは、生活に潤いがないのだな。一つ一つの出来事、周囲の人々との対話、やり取り、食事、そういうものに満足しないと、メタ的なものに走ってしまう。

メタ的に理解すると気分が高揚する。日々日常の他者とのやり取りで高揚せず、自分の内面だけで高揚する。メタ認知というのは、そういうものの最高の肴である。

漱石なんか完全にメタ人間だな。坊ちゃんは完全なメタ小説。生涯メタから抜けられない。メタをメタるという境地には至っていないと思う。あれを書いてご本人は救われていない。

それに比べて自分は進んでいるな。

なんて文豪に勝ったなんて粋がっている。

偉そうに文豪を肴にして語る。

けど、そうは思えない。

彼はそういう人だったのだな、という以上のものはない。ただそれだけ。

文豪より優れているからといって何の足しにもならない。

人々から持ち上げられ多くのしがらみを持つ文豪君というのは、凄いという反面、うん、どうなんだろう、気の毒だな、という面もある。

じゃあ、文豪というのは、仕様のないものだ、あほらしい、とも思う。

じゃあそれでいいか、といえばそうでもない。

そういうものになりたいという気分になる。

なりたいものがお気の毒じゃ、どうすればいいのか?

そういうのをメタに語るなんてどうなんだろう。

やっぱり、日々刻々エピソードに刻まれた人生が最高だよな。

これじゃあ文豪君は務まらない。

表現する甲斐がない。

エピソードを与えてくれる他者を探してしがらみを結ぶ。

いい奴だな、と思える相手。

そういう人を見出して折り合っていくしかない。

このようなメタを発見したからといって粋がるほどのことではない。

当たり前のことである。

息を凝らしてメタを続けていくうちに、エピソードを感じ取っていく。

山から下りていくようなものだ。

山から下りたら文豪君失格だろう。

1割にならなくて、その9割のなかの1パーセントでもいい。

そういう役割もある。

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2008年6月19日 (木)

呪いと祝福を発話運動から考える

呪いと祝福、意識と無意識の2×24通り考えて見た。

意識した呪い

無意識な呪い

意識した祝福

無意識な祝福

意識した、とは、無理しているとか苦労してとか熟慮した結果とかわざととか不自然に、というように捉えた。

無意識な、というのは、自然に、簡単に、直感的に、考えないで、という意味とした。

すると意識して呪いは掛けないように思える。

やはり無意識のうちに呪ってしまう。

無意識な祝福は、親しい仲間とか気心のある人々に対して自然に出てくる歓喜である。

意識した祝福は、心に引っかかっているけど建前上仕方がない、というようなニュアンスがこもりぎこちなくなる。

こういうような区分があるというのは、倫理的ではない、のだけども、自分ではそういう思いをしたので取り上げる。

倫理的に正しいと思って、意識した祝福を幾ら努力してしても相手に伝わらなかったら、単なる呪いに過ぎないと考えたから、そういう区別をすることにした。

意識どおりに結果が運ばない。祝福も意識したら呪いになるから怖いと思った。

閑話休題

「ばか」と「あほ」、「いて」と「あうち」と同じネガティブな意味があるけど何回も発話すると結果が違う。

ばかばかばかを繰り返すと気分が悪くなるが、あほあほあほを繰り返すとあほらしくなって笑いがこもってくる。

いていていてを繰り返すと余計に痛くなって嫌になるが、あうちあうちあうちを繰り返すといたいのいたい飛んでいけ、というように痛みが解消する。

意味的にネガティブなことを発言することが呪いというように捉えがちであるが、発話運動の状態によって祝福にも呪いにも変わる。

意味と運動の関係を捉えると、幾ら意味がネガティブなものでもその発話運動によって気持ちよくなってカタルシスされれば、良いのではないか?

逆に意味がポジティブであってもその発話運動によって気分が落ち込めば良くない。

だから、バカというのは良くないし、suit!は、良い。

呪いも祝福も発話運動の良し悪しから判断すべきではなかろうか?

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2008年5月31日 (土)

大学生がよむ50冊

今日も寒かった。

秦野の東海大学に東急と小田急を乗り継いで赴いた。

本厚木を過ぎる何となく頭がカーッとしてきたので、いつも胸ポケットに入れているギベオン隕石とピップエレキバンをズボンのポケットにしまった。

このあたりは、そういうものを携行しなくても間が持つ。

愛甲石田あたりから丹沢の山裾を走っている。

何となく気分が良くすやすや眠った。

東海大学前で降りるとひんやり寒く何か別の世界に来たようなのぼせ感があった。

丁度昼だったので駅前の定食屋でランチを食した。

豚の塩カルビにトロかつおの刺身が組み合わさったランチメニューだった。味噌汁のほかおまけにババロアとオレンジジュースが付いていた。これらで840円。

旨かった。

それから丘の上のキャンバスに入る。

いいところだなあ。こういうところで生活しないなあ。

200冊ぐらいの書物から50冊、大学生が是非読むべきだというものを小説家や詩人、文芸評論家の方々が書評をしながら選び出すという催しだった。

200冊は大体題名は聞いたことがあるけどほとんど読んだことがない。

中学の頃、新潮文庫の100冊を薦められたけどとてもじゃないけどこなせなかった。

どかっと100冊と示されてもなすすべも無く挫折した。

小学生の頃はよく読んだが、中学生の頃から失読症になり、殆ど本を読んでも頭には入らなくなった。

今となっては、この原因が、地磁気欠乏と揮発性化学物質だろうという見当が付いた。

これら200冊の中に、この問題に言及しているものはなさそう。

これらの本を読んでも自分の根本問題が解決するわけではなさそうなので、読まなくても良かった、なんて思うのだ。

気付くのに、読んだほうが速いか人から聞くほうが速いか科学をやったほうが速いか、と今振り返ると思うのだが、どうなんだろうと探索している。

多くの文学作品は、この地磁気欠乏症や揮発性物質についての言及が無いように思われる。漱石にせよ小林秀雄にせよ、ご自身その問題に苛まれているように思われるが、表向き解を表出されていない。

三島由紀夫の金閣寺は、近いものがある。禁欲を強いられている修行僧が、金閣寺を見てむらむらしてきて淫乱さを覚え、ダブルバインドに苛まれ放火してしまうというのは、何かしらのほのめかしなのかもしれない。

小林秀雄の骨董への傾倒もおそらくその問題の答えとなっているのかもしれない。

かなり明示的に内田先生や森千里先生は言及されている。

このお二人の著作もノミネートされて頂きたかった。このお二人を読めば文学の見通しが立つというものではないか?

人がその本を読んでみたくなるような書評の仕方というのはこれまで殆ど意識してこなかったが、改めて勉強になった。