2008年5月27日 (火)

感情を文章にすると

感情の向くままに文章は書きやすいが、一度書いてしまうと、もう一度同じことを書こうとは思わない。気が済んでしまうからか?一度書いたことをもう一度書くのは面倒なのか?

重箱の隅をつつくという意味で、似たような感情を何個か書く場合があるが、微妙に違う。

文章にするということは、その感情とおさらばするようなものなのか?

すべて感情のまま書き連ねると仕舞いに書くことがなくなるのだろう。

書くとしたら、感情とは無関係なもの、すなわちかなり考え込んで書くようなものになるのだろうか?主観的体験よりもむしろ客観的仮想を書き連ねていくのだろうか?

この頃、あまりブログが乗り気じゃない。

書きたいことが枯渇してきた。

書きたいことはあるけど、何となく書きたくない。

人から聞いた話はあまり書きたくない。

あくまで自分で考えたこと思いついたことだけ書きたい。

どうも人から聞いた話というのは、色々しがらみがあるらしく公言が憚れる。

自分で感じたことをそのまま書く。

これが他人と接点を持つとはあまり考えられない。

自分で思いついたらすべて自分のものとして勝手に出せばいいのではないかと思う。

思いつきというのは天の声である。

他人とは関係ない。

他人と関わって思いつくのだけど、他人の発言をそのまま書くわけではないし、アイディアが沸くのは自分である。

誰々さんが何々を言っていた、ということの中で、本当に面白いと思ったことは、どうも書きづらい。なんかやばそう。そこに複雑怪奇なしがらみが絡まっていそうだからである。

せいぜい当たり障りのないことしか書けない。

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2007年9月 5日 (水)

騙された気分

今まで人生生きてきてずいぶん騙されたな、とつくづく感じ入る。殆ど、嘘の上に作られたでっち上げ立った。もともと条件が悪いゆえのもがき苦しみだった。

気付いてしまうと情けない。

これからどうやって生きていけばいいのか判らない。

苦しみの原因は、探るものではなく、苦しんだ状態をなんら疑わずそのまま受け入れて、相手も同じように引きずり込む。これが近代の生き方だとつくづく思った。

これから死ぬまで、この繰り返しか、しょうがねえなあ。

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2007年6月26日 (火)

自己責任

自己責任というのは、バブルが崩壊した後、アメリカ的発想としてはやり出したが、そもそも日本に住んでいる人は、縄文時代から自己責任で生きていたのではないのか?

着の身着のまま、他所から渡ってきたのだから、そういうメンタリティーが今でも強く残っていると見た方が妥当だ。

日本人は、欧米人と比べて集団主義的だといわれるが、心の奥底では個人主義かつ自己責任的なところがある。学校で日本人は正直で慇懃で礼儀正しいことを習って、若い頃は真に受けていたが正反対である。

他人を信じられないから、慇懃に空気を読みながら接するのだろう。

他人任せにするとろくなことないという事件が多発している。年金の問題、教育の問題、介護の問題、全て自分でしっかり手を打っておかないと取り返しが付きませんよ、ということを物語っている。

年金騒動は、自分が払ったという証拠が残らないというトラブルだから、他もそういうことがあるのではないのか?預金したつもりなのに記録に残っていないとか、契約したつもりの生命保険が記録に残っていなくてチャラになるとか、そういうことが続発していくんだろうな。

そもそもコンピュータのデータベースに登録するのはいいけど、今後何十年にも渡ってきちんと残るのかな?古くなってシステムを更新したときうっかり入力ミスしたとか、間違えて再登録したとか、色々トラブルが起こるのだろう。

そもそも若いヒトの人口が減ってくる。そうするとそういうデータメンテナンスするような人材が極度に減ってくる。根気と精力をもろに要求するメンテナンス業務を誰がやっていくのか?

そういうことが予想できるのに後先考えないで、とにかくデータベース化してしまうのも、目先しか考えない着の身着のままというメンタリティーの所産だ。

大勢ヒトが集まって何かを企てると、こういうことになる。その場を繕って、お互い責任を押し付けあって、自分は責任回避する。その場が凌げれば良い。そういうことの繰り返しだから草臥れるんだろう、日本の生活って。

学習も健康も食事も年金も、自分の掌中に納めておかないと碌なことはない。ヒトにお任せしてバカを見るのがライフ・オブ・ジャパンなんだろうな。

中には税金を払わない集団があるというけど、そういう人たちというのは、国にお任せできないから自分たちで勝手にやります、と宣言しちゃっているんだろうな。

年間50万ぐらい税金で持っていかれるけど、教育も医療も安全も安心もお任せできないな。じゃあ公的機関以外にお願いするとしても、誰もいないからねえ。自分1人が頼り、感覚を研ぎ澄ませて生きていくしかないんだろうな。

これだけ沢山国に投資しているのだから、うまくコントロールしなきゃ駄目だな。勿体無い、なかなか参画できないからせめて好きなだけ言わせてよ。

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2007年4月21日 (土)

2次元空間から出現したヒト

今晩昨日のブログを読み返すと違和感を覚えた。いつものような歯切れがない。しかも登場人物への態度も違う。一貫性がないのはどうかな、と迷った。

毎日の日課になっていて、ノルマを果たさなくては、とメモを見ながら、ながながと2時間かけて書いた。

いつもは、さっさと思いの向くまま何も参照せずにさっさと書いてしまう。

消化し切れていないものを書くとやはりうそになる。読んでいても気に食わない。

登場する人々に先生という呼称を付けている。

いつもは、何とか氏、である。そういうアカデミックの雰囲気に飲まれていて、延長上で様子が出たのだろう。そのようなコンテキストに入っている。あまりコンテキストの切り替えをしない生活になっているから変に思えた。

企業のトップを歴任された方への態度もおかしかった。ご来訪を前もって知らず、えっ!と突飛ようしがなく出現されていたという様子だった。そのままテレビや雑誌を見ている様子だった。生身の本人というよりもむしろメディアに投影されたものと見なしてしまった。

懇意にされている先生方には先生と恭しく表現し、日頃テレビや雑誌にしかお目にかからない人物は、そのまま、安部首相がどうだとか、松坂がどうだとか、お笑い芸人がどうだというような別世界で自分とは全く関わりがないという目で見て批評してしまう。

日常の現実の世界でお付き合いしている方々と、メディアでお目見えする方が、同じ空間を享有すると不思議な感覚になる。

日頃現実にお付き合いしている人がメディアに出るのは、ああ出演されているのか、というぐらいで特段の違和感を覚えないが、これまでずっとメディアで出会ってきた人が、現前に生身で出現したとしても、生身と感じられず、相変わらずメディアのままである。映像や紙面での2次元空間から現実の3次元空間にうまく変換されないのである。

週末最後の疲労も重なり奇妙な体験をした。

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2007年4月 7日 (土)

丁度ブログを始めて2ヶ月

今日丁度、このブログを始めて2ヶ月間が経った。累計394名の方にアクセスして頂いた。

このブログの存在は、殆ど知人に教えていない。ぽろっと一名だけにタイトルを示して読んでみてくださいよ、とお願いした。トラックバックも殆どかけなかった。

このブログは、とある評価サイトによると、$1,129.08の価値だそうだ。大体12万円。1ヶ月6万円。1記事2000円。時給2000円位となった。知人友人に比べれば、まだまだ安い。凄い人は、5000万円という人もいた。

こういってしまうと、露骨に金儲けしよう、と考えているのがバレバレである。まあブログというのは、誰でも表現できるということで多くの人々が飛びついている。俺はそういう汚いことは考えていないと表では言うものの、心の奥底では、ひょっとしたら、と思っているはずだ。

殆ど人目を気にせずそのまま書き散らした。幸い何を書こうと思い悩んで長考したことはなかった。直ぐに書けなければ、シャワーを浴びて体を温めれば、話題が思い浮かんだ。

そろそろ次の段階に進みたいが、もうしばらく話題が発散するだろう。いずれ収束したら、精巧に色々組み合わせて書くことになるのだろう。まだまだ礼儀を知らないからトラックバックを掛けるのは遠慮しておこう。

最初の頃は、露骨に不平不満が多かったが、最近は少なくなってきた。書きなぐると、解消していくものなのか。

ネガティブなことを多く書いてきたが、確信犯的なこともある。あえてネガティブなことを書かないでポジティブなことばかり書くことが礼儀正しいように思われるが、実は、ネガティブなことを隠蔽して棚上げしていると考えているように思える。書かないということは、その存在そのものを否定していることになる。

ネガティブなことにも向き合っているのだ。そうしないと問題解決への一歩を踏み出せない。

実名で、立場を背負っている人が、あるネガティブなことを書かないところを見ると、この人は、そのことを隠蔽しているのだ、と気付くし、その点は触れてはいけないということをあえて言っているようなものである。沈黙が結果的に暴露と等価になる。実名を出しているのだから、相当プレッシャーになるはずである。実名で、言ってはいけないと言ってしまっている。

またネガティブのことを自分の心に溜め込んでいるのではないかと思われる。

そういった物は、言語化して外に表出したほうが、すっきりするのではないのか?

アメリカ人が気分が悪くなったり気に食わないことを体験するとsuit!と悪態をつく。お腹に力を入れて擬似排泄することによって浄化しているのである。排泄は気持ちよい。suit!は、排便そのものを表音している。悪いものを外に排泄するという意味で精神的に良いのではないのか?

他者に向けられても、自分と他者が同時に擬似排便することによって不愉快な状況から開放されるのである。排便運動によるミラーニューロンの同時発火である。アメリカ人は、自分が不快だったらお前もそうだろう、という確信的共感がある。だから一緒に排便して気持ちよくなろうじゃないか、となる。

こういう考え方が、通用するのかは未知数だが、私はあえてこう考える。

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2007年3月28日 (水)

枠を超えろ!

啓発や人生訓において、自分の狭い枠に囚われずに広い見識を持て!といわれるが、建前であろう。本音では、皆蛸壺にはまって、近視眼的に振舞って欲しい!と願うものだ。みんな困って欲しい。皆困るがゆえに自分を頼ってくれるのである。だから枠を超えた見識なんか持ったら、何処に行っても白い目で見られる。見識を持てば、自己完結してしまう。人との接点が不要になる。困ったことが起こらなくなる。

皆暇になってインターネットにアクセスする時間があれば、医療、法律、スポーツ、教育はすべて、自前で用意できる。専門家を訪れても何だこの程度か、お金を払ってもったいない、と思うことが多い。

たとえば、民事紛争でも、弁護士を立てないで直接裁判官と話したほうが話が速いのではないのか?全て社会通念で判断されるというから、社会通念上で理論武装すれば良い。また根拠なく決め付けられたら、統計的手法を使って、統計的有意性を裁判官に突き付ければいいのではないのか?そうならないように弁護士と裁判官がタグを組んでワザと法律用語を難しくして、一般市民である部外者を排除してブラックボックスにしてしまうのである。

素人がインターネットの知識を引っさげ裁判官と対峙したとしても、弁護士と裁判官での談合で培われたコンベンションに反すると、面倒くさそうになるのだろう。論理的に正しいことを言っても、時間的制約があることもあるし、法曹という枠外に議論が発展するとたぶらかしたくなるような真情に陥るのではないのか?あまりしつこく迫ると、裁判官の心象を悪くする、とのことで不利になるから、控えるように、とたしなめられるのである。

これは理不尽だと、異議申し立てをしようとしても、資金と時間的の暇がないので、しょうがないなあ、と引き下がるしかない。

日常生活において、多くの人は、狭い概念の中で足かせをはめられ、その枠組みの中で、創造したり成果をあげないといけないように仕向けられている。論理的な新規性は枯渇しているので、超能力や錬金術をしなくてはならない。論理的に間違っていなくても、多くの人への感性で受け入れられるかというとこれまた怪しい。嘘を強いられるのである。まあ平気でこれらをやってしまう人もいるけど、大多数は精神的に滅入ってしまうものだ。

こういう世の中の傾向にあわせて、枠を超えろ!なんていうキャッチコピーで上手い話を持ってくる輩がいるが、嘘八百である。狭い世界に囚われるな!という連中でも、それぞれ個々に役割が宛がわれ、汲々と夢を売ることに参画しているのである。そういう人達を見ても楽しくならない。本人たちが苦痛に満ちているのが、殆どである。

そういう人々は、苦しい状況で、苦労しているんだ、と自分を尊敬したくなるのだが、決して自分を好きになる事はないだろう。

こういう空虚感を乗り越える何かが必要なのだ。

しかし、そんな暢気なことを言っていられないのである。それぞれ相互依存しているときに枠をはめると、とんでもないことになる。

それぞれが相互依存して、どれもが全体の系を維持していくのに不可欠な存在となる場合、厄介である。

人間は自分にとって都合の良い物は、保有したがるが、そうでない物は、見向きもしなくなるし、棚上げしたくて、見たくもない!となる。都合の良いことだけに枠をはめ、悪いことは枠外に追い出したくなる。

それぞれ人々は仕事をしているわけだが、個々個人が他人から受け取った材料を加工して、別の他人に納める、という処理をすることによって、大きな集団としての仕事が成り立っている。人それぞれは、自分の仕事を世界の中心として考える。自分が有利になるように、ことを運ぶのである。結局自分が一番忙しくなるように仕向けるのである。そうすると資金が潤沢になる。

それをやるためには、自分の仕事を複雑怪奇にしてブラックボックスにするのである。そうすると関係者に余計に頼られるようになる。事が複雑になると、自分が関与するのが嫌だから他人任せになる。そういうところで誰もが判らないし理解できない袋小路が見知らぬうちに癌細胞のように増殖してくる。

ブラックボックスに頼る人は、当然、ブラックボックスの当事者がフォローできるものだと信じきっている。しかし当のブラックボックスの主はどうにもならなくて、困ってしまっている。しかし駄目だとはいえない。言ってしまうと自分たちの存在意義が無くなってしまう。だから隠すのである。

外側にいる人は、理解できないので突っ込めなくて、その問題点が放置されずるずる棚上げされていくのである。難しいという問題は、駄目だから止めましょう、と言えればいいのだが、いえないのである。生存に関わるからである。

だからどんなに難しいことでも、解決に見通しが立たなくても頑張ってしまうのである。たとえ論理的に破綻していても精神論や根性で錬金術に走るのである。

そういった難しいことは、言語化が困難である。言語を構成する論理体系が複雑怪奇というだけではなく、その事象を言及したくない、棚上げしたい、となるのである。

このような問題は、誰もが所有したくないのである。そういった問題を指摘すること自体憚れることとなる。

当初、自分たちの仕事を増やすしパイが増えて良いのだが、だんだん時間経過とともに複雑化すると、誰も制御できない混乱と破滅への道に向かうのである。

こうなると枠をはめるというのは、脳にアミロイドという硬くなったたんぱく質が網の目のようにめぐらされることによって発症するアルツハイマー病と同じである。

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2007年3月13日 (火)

コメディーと主夫

イギリスではコメディーがはやっているが、日本ではいまひとつという。日本人はあまり受け入れないそうである。

以前、イギリスのコメディー、ザ・オフィスの一部を茂木さんの朝日カルチャーで紹介された。アメリカ人の講師が聴講者全員英国人という中で、講演をしてもぜんぜん反応がないくだりであった。アメリカ人は、ニーチェのように、健康だの血の巡りだのアメリカ英語で快活に問いかけても、誰一人空ろな目でシラーっとしているシーンであった。1人だけ元気だった。周囲が盛り上がらないのに、お構いなく元気な調子が変わらないのである。困った仕草もせず、勝手に話しているという様子である。

この文面からご推測されるように、取り立てて面白い内容でもないのか、聴講者は殆ど笑っていなかった。しかし私一人だけ、声を出して笑っていた。よく自分が体験するからである。体が大きいから声もでかくなるのだが、聞いている人は迷惑そうである。これを思い出してニヤニヤしつつ笑ってしまった。対話不可能な状況だからである。コミュニケーションギャップである。英国では、こういう話は受けるそうだが、日本では、受けないらしい。

先週末、同じようなシーンを飲み屋で私の目の前で再現された。登場人物はAさんとCさんであった。図体の大きなAさんは盛んにファンクションだのステートだのダイナミクスだの早口で語っている。Cさんは、話についていかず、うーん、うーん顔をしかめながら聞いていたが、しょうがねえなあ、というそぶりで、手持ち無沙汰で携帯電話を弄繰り回していた。その飽き飽きした様子に気を止めずAさんはどんどん話を進めている。それがしばらく繰り返されたので、私はニヤニヤしてしまった。他にも沢山いたが、この様子に気を止めなかったのか、笑う者はいなかった。

笑ってはいけない状況なのかもしれない。イギリス人は笑うけど日本人は笑わない。

哲学的談義で、話の様子があまり判らないし、訊いていて息が詰まってきたので、一転、世の中には語っては、いけないことがあるのですよね?という問い掛けをした。ああ、いいたくないことはあるけど、いえないことはないな、というように応えていただいた。私と逆ですね、もしかしたら、いえないことがいいたくない事ですか?と確認すると、いえないことは、見知らないオネエちゃんの体に無断で触ることと同じだよ、と返していただいた。世の中の日常生活の様々な場面ではいえないことがあるけど、これを言うことは、オネエちゃんの体に触ることと同じなんですね!と改めて感心すると、お前、そんなこと言って楽しいか?下らないだろうと、怒られた。

俺は、どうせ養って貰っている身だよ。となった。Aさんは、主夫らしい。奥さんに養ってもらいながら研究を進める研究主夫という。そういう境遇に対して負い目を持っているとはあまり想像できなかったが、男である以上、主夫と言う境遇は精神的に辛いものなのかと、怒られて、はっと気付いた。まずいことをいってしまった、と気分が沈んでいた。

数日経過したが、少しそのことをまた考えてみた。主夫も勤め人も本質的に変わらないじゃないか。ある合意の下に食い扶持を確保しているからである。主夫は、家族の役割を果たせば、自由な時間が多いのではないのか?自由に研究できるからである。主夫でも研究成果を奥さんに披露してコンサルすれば、一家の収入にも寄与するはずである。

あの一方的な口調でマシンガンのように問いかければ伝達不能でそうはならないのかもしれない。

ただそうはいうものの、養ってもらう身だから、いつ奥さんにその立場を取り上げられるか判らないと言う不確定性があり不安になるのは確かである。主婦である母からそういう心情を打ち明けられたことがある。

それを言うと勤め人も同じである。主夫は自立していないと言うものの、同じことは勤め人も同じである。本当に大丈夫なの?と言う仕事を押し付けられて、しかもいつ首になるか判らない。おちおちしていられない。

まずは、食い扶持がとりあえず確保できて、思索に耽ることが出来るだけでも良いじゃないか、と思う。

ただし、その耽りが、楽しくてやっているのではなく、必要性に駆られていることはよく判る。考えないと自分の身が持たないという危機感から哲学に傾倒するのである。働き者から、働きもせずにぼーっと物思いに耽っていて、お気楽ですね、と嫌味を言われるが、決して気楽ではない。生死をかけているのだ。そうじゃなければ、手足をばたばたさせて働くよ。そうじゃないから物思いに耽っているんだ。

語りえぬことが、主夫である自立性のなさ、と言うのは以外だった。別に怒ることじゃないだろうとAさんに言いたいところだが、年上で立場的に面と向かって言えないから、ブログで書かせていただくのである。

私も主夫になりたいな。私を飼ってくださる方募集します!家事に洗濯、おまけに精神世界にいざないます!

あの2つの場面で私は、ニヤニヤしてしまったが、周囲から冷たい視線を浴びていた様子である。日本では、コメディーは、難しいのかもしれない。

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2007年2月14日 (水)

組織に縛られたくない心情

どうも自分は組織に縛られたくない気持ちが強い。その組織の目指す理念や目標が自分にとって詰まらないものと感じ協力的というよりは別のことをやろうと頭が一杯だった。周囲には目もくれず自分の理想に向かってひた走る。周囲が見えないというのだ。

組織の人間になると視野が狭くなるとか蛸壺に陥ってしまうと革新的な人々に乗せられてある意味油断してその路線を突き進んできた。

これがつい最近、そこに属する人々の感性や物の考え方に共感できないということが判明した。これは身体や生理に関わるものであり不可避的なものと断言できる。同時に、自分と同様な感性を持つ人間が自分の身体を犠牲にして何とか食い付いているというのも判ってきた。

最近、組織には属さず、自分を貫いてきて順調なステージに立ちつつある先生とこのことについて話した。先生は、俺は一匹狼で組織と相容れない、傭兵のように一時的な仕事を取ってくる。どうも組織を壊したいタイプだという。手の指を使って「ぼっかーん」という仕草を幾度か取りながら力説する姿は印象的だった。とかく強い刺激を求める性格だ。あるときは味方になりあるときは敵になるというのが刺激的だという。

多くの周囲の人たちは、幾ら組織のあり方が不条理であっても死守しようとするし組織のためには嘘をつく。組織に対する帰属心が強い。こういった中、先生や私は、不条理さに我慢できず、組織を出てしまいたい衝動に駆られる。そういう組織は、ぶっ潰せ、ぼっかーんという先生に対して、私は、組織に不満だとしても改善しようとしたりその組織を乗っ取って自分の意のままに支配したいという欲求が沸かないのだ。関わりたくないという心情も強いし、合意形成をしないで人を動かすことに対する強い躊躇いもある。お互い納得して気持ち良くなりましょう、という意識が強い。どうもこのような合意形成ができないと見ると絶望感に駆られ回避してしまう衝動に駆られる。

 周囲の人々は、そういう合意形成なくどんどん進んでいく。ここに身体的生理的な感性の違いが立ちはだかる。ヒステリックにそういうのは嫌となるが、「ぼっかーん」という気持ちまでは発展しない。こういう発想するのは、女性的ということに気付いた。

 では、周囲の女性たちをみると半分は男のように無感性で黙々と勤しみ、半分は感性を持てあまし軽く流している。そういう組織を動かそうという意識がない。壊そうともしないし逃げようともしない。どうもそういう女性達には与することができない。

 無感性のうちにシンボリックな指示に無抵抗に従い処理していく組織が最近やばくなってきた。誰も止められなくなってきた。私は、逃げたいと思うが逃げ場がない。逃げ場を作ろうと忙しい。それが、色々な先生とお付き合いする一番の理由だ。

 この先生は、臥薪嘗胆を経て成長軌道に乗りつつある。これからも自分を貫き通すのか?

そうではないらしい、加齢して体力がなくなってくると、貫き通すことに対する意欲が減衰するという。乗ってしまうと今度は、着地して組織の人間になってしまうとのこと。その組織は、自分にとって心地よい選び取った組織という。

 自分を振り返ってみると自分の意心地のよい着地点を探りたい。だいたい自分と愛想の連中は組織で孤立している。じゃあそいつらと与して何ができるかというと思いつかない。場所の取り合いになってしまい結局孤独だ。そういうものしかない。組織に与して何かをやるという業態が成立し得ない。そうするには誰かしら感性を殺して従事しなければならないことになる。

 好き勝手人間は、どうも生き辛い。なんとかしなければ。

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