啓発や人生訓において、自分の狭い枠に囚われずに広い見識を持て!といわれるが、建前であろう。本音では、皆蛸壺にはまって、近視眼的に振舞って欲しい!と願うものだ。みんな困って欲しい。皆困るがゆえに自分を頼ってくれるのである。だから枠を超えた見識なんか持ったら、何処に行っても白い目で見られる。見識を持てば、自己完結してしまう。人との接点が不要になる。困ったことが起こらなくなる。
皆暇になってインターネットにアクセスする時間があれば、医療、法律、スポーツ、教育はすべて、自前で用意できる。専門家を訪れても何だこの程度か、お金を払ってもったいない、と思うことが多い。
たとえば、民事紛争でも、弁護士を立てないで直接裁判官と話したほうが話が速いのではないのか?全て社会通念で判断されるというから、社会通念上で理論武装すれば良い。また根拠なく決め付けられたら、統計的手法を使って、統計的有意性を裁判官に突き付ければいいのではないのか?そうならないように弁護士と裁判官がタグを組んでワザと法律用語を難しくして、一般市民である部外者を排除してブラックボックスにしてしまうのである。
素人がインターネットの知識を引っさげ裁判官と対峙したとしても、弁護士と裁判官での談合で培われたコンベンションに反すると、面倒くさそうになるのだろう。論理的に正しいことを言っても、時間的制約があることもあるし、法曹という枠外に議論が発展するとたぶらかしたくなるような真情に陥るのではないのか?あまりしつこく迫ると、裁判官の心象を悪くする、とのことで不利になるから、控えるように、とたしなめられるのである。
これは理不尽だと、異議申し立てをしようとしても、資金と時間的の暇がないので、しょうがないなあ、と引き下がるしかない。
日常生活において、多くの人は、狭い概念の中で足かせをはめられ、その枠組みの中で、創造したり成果をあげないといけないように仕向けられている。論理的な新規性は枯渇しているので、超能力や錬金術をしなくてはならない。論理的に間違っていなくても、多くの人への感性で受け入れられるかというとこれまた怪しい。嘘を強いられるのである。まあ平気でこれらをやってしまう人もいるけど、大多数は精神的に滅入ってしまうものだ。
こういう世の中の傾向にあわせて、枠を超えろ!なんていうキャッチコピーで上手い話を持ってくる輩がいるが、嘘八百である。狭い世界に囚われるな!という連中でも、それぞれ個々に役割が宛がわれ、汲々と夢を売ることに参画しているのである。そういう人達を見ても楽しくならない。本人たちが苦痛に満ちているのが、殆どである。
そういう人々は、苦しい状況で、苦労しているんだ、と自分を尊敬したくなるのだが、決して自分を好きになる事はないだろう。
こういう空虚感を乗り越える何かが必要なのだ。
しかし、そんな暢気なことを言っていられないのである。それぞれ相互依存しているときに枠をはめると、とんでもないことになる。
それぞれが相互依存して、どれもが全体の系を維持していくのに不可欠な存在となる場合、厄介である。
人間は自分にとって都合の良い物は、保有したがるが、そうでない物は、見向きもしなくなるし、棚上げしたくて、見たくもない!となる。都合の良いことだけに枠をはめ、悪いことは枠外に追い出したくなる。
それぞれ人々は仕事をしているわけだが、個々個人が他人から受け取った材料を加工して、別の他人に納める、という処理をすることによって、大きな集団としての仕事が成り立っている。人それぞれは、自分の仕事を世界の中心として考える。自分が有利になるように、ことを運ぶのである。結局自分が一番忙しくなるように仕向けるのである。そうすると資金が潤沢になる。
それをやるためには、自分の仕事を複雑怪奇にしてブラックボックスにするのである。そうすると関係者に余計に頼られるようになる。事が複雑になると、自分が関与するのが嫌だから他人任せになる。そういうところで誰もが判らないし理解できない袋小路が見知らぬうちに癌細胞のように増殖してくる。
ブラックボックスに頼る人は、当然、ブラックボックスの当事者がフォローできるものだと信じきっている。しかし当のブラックボックスの主はどうにもならなくて、困ってしまっている。しかし駄目だとはいえない。言ってしまうと自分たちの存在意義が無くなってしまう。だから隠すのである。
外側にいる人は、理解できないので突っ込めなくて、その問題点が放置されずるずる棚上げされていくのである。難しいという問題は、駄目だから止めましょう、と言えればいいのだが、いえないのである。生存に関わるからである。
だからどんなに難しいことでも、解決に見通しが立たなくても頑張ってしまうのである。たとえ論理的に破綻していても精神論や根性で錬金術に走るのである。
そういった難しいことは、言語化が困難である。言語を構成する論理体系が複雑怪奇というだけではなく、その事象を言及したくない、棚上げしたい、となるのである。
このような問題は、誰もが所有したくないのである。そういった問題を指摘すること自体憚れることとなる。
当初、自分たちの仕事を増やすしパイが増えて良いのだが、だんだん時間経過とともに複雑化すると、誰も制御できない混乱と破滅への道に向かうのである。
こうなると枠をはめるというのは、脳にアミロイドという硬くなったたんぱく質が網の目のようにめぐらされることによって発症するアルツハイマー病と同じである。
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