2008年6月 1日 (日)

文章を通じて他人がした体験は出来るか?

いやあ、なかなか出来ない。加工すれば出来るのであろう。

体験可能かどうかは、体験できると感じる、読んでいるうちに頭がぼーっとして途中で止める、という範疇に集約できそう。

これまで、頭がぼーっとするというカテゴリを自覚してこなかったから、悔しいかな、どつぼにはまっていて自身を分裂させていた。

さっと読んで、こりゃダメだと見切りをつける。これが大切ではないか?

ダメだと思ったら、翻訳する。

まず内容を理解する前に、その文章が自分にとって読めるかどうか精査する。

出来なければ、副詞とか感嘆詞や形容詞をバッファーとして挿入する。

インターネットコンテンツなら簡単に挿入できるけど印刷物なら横に添削する。間を沢山空けていただかないと出来ない。

こうやって機械的に自分に合うような文章に変換してから楽に体験できそう。

ただし別体験になるのだろう。作者と自分との体験は、似たものとなるだろうけどやはり別物。

自分から見て息遣いが短いのと長いのでは異なる。

短いと息が詰まるし長すぎると頭が痛くなる。

そうすると、他者の文章によって必ず体験できるものではない。

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2008年4月16日 (水)

人柄と文章の反比例

昨日の同時性についてだが、先手を取られてしまった。当方がまざまざとお顔を覗き込む前に、どういう神経で同時性を語っているのだと、先立ってまざまざと覗き込まれていただいた。

時折こういうエントリを書いてみると、どなたが閲覧されているのか結果的に判明してくることもある。くわばらくわばら。

時には、そういうことも考えて頂ければと存知申し上げる次第なのです。

ところで、人柄と文章は反比例するとのことです。

世の中、そういう風になるような強制力も働くようです。

きつめの人というのは、やわらかい文章を書かれるそうです。きつめの人がきつい文章を書くと、やっぽそうか、で読者が引いてしまうそうです。だから念には念を入れて人に優しい文章を書くよう誘導されるそうです。

逆ににこやかで穏やかな人というのは、きつい文章でも許されるようです。え!そんな優しい人がこんなひどいこと書くの!と意外性が受けるそうです。穏やかだから、たまには不満を外に出してもいいんじゃないのと周囲が寛容になることもあるらしいです。

そうとはいえ、毒を外に撒き散らして自分がきれいになる方と、きれいな言葉を並べて、自分に毒を溜め込む方といらっしゃる。

最近きつめのホープが出現し、どちらかといえばきつい文章を書かれるので、棘の取れた温和な文章になるよう周囲が矯正するという話も小耳に挟みました。

折角勢いがあって好調なのに、このままキツイままだと周囲が引いて駄目になる、ということを懸念されているらしいのです。

でも、その方はきついままでいいのでしょう。そのきつさがたまらなくいいのですよ。

自己解体させてはもったいない、と思います。とはいえ、どう解体されるのかも見てみたい気分になります。

どう誘導して解体されるか、あるいはどんな誘導にもめげずに解体されないのか?

ひねくれていますけど、とても興味深いですね。

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2008年4月12日 (土)

読み手に不快を与えない文章なんかあるのか?

いくら、世の中のすべてを平等に持ち上げ腐さないようにしても、そんなの情報量0

だし、時間の無駄であるといって不快にさせることもあるだろう。

そういうのが不快になること事体間違っているのか?

そういう文章をもって微笑んだら、至福なるひと時じゃないか?

そう感じる人もいれば、いない人もいて不快に思う人もいる。

ましてや、そういうものが人生の岐路に立ちはだかるのも不快ではないか?

そもそも試験問題に採用される文章は不快を与えている。

誰も持ち上げないし腐さない文章で人生決まるなんて理不尽だ。

そういう文章をかび臭い会議室で缶詰になって書く風景を想像するだけで不快になるじゃないか?

このように書くとその当事者も不快だろうけど、それが人生の岐路に立ちはだかったり、面白いと思って時間を使わされてみたり、あるいはその場面を想像したりするだけで不快である。

不快だから止めてしまえといいたいところだが、そうはされない。

不快でもいいのでしょう。

相反する事実に対して一方を立て一方を腐すのは良くないから、一つ抽象度を上げてメタに語れば、双方持ち上げたりあるいは蔑まなくてもいいから大丈夫とは言われるけど、

科学社会学とか医学社会学、工業生態学、文学社会論、なんていうのはこの世に存在しないのは不快だからなんだろう。

論理は感情の排泄物なんだから、ひとたび排泄されると、糞なんだから不快になるのに決まっているだろう。

そういうものを気持ち良くするなんて、ウグイスの糞をほっぺたに塗るようなものだろう。

別に不快じゃないのかもしれないが。

どうなんでしょう?

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2008年3月30日 (日)

村上春樹という飴と入れ歯という鞭

ピップエレキバンをお教えくださった内田先生の「入れ歯」理論に思わず反論したくなった。

合気道の達人は入れ歯が良く合うらしい。合わない場合は幾ら作り変えても合わないらしいが達人たちは一発で合わせてしまうらしい。

これは合気道の技の一つらしい。自分と合わない異物に対しも合わせて同化するという。

普通、合わないものは不快で苦痛で合わせようとすると努力と辛抱と根性がいる。それを鍛錬によって楽に出来るらしい。

進化主義的発想である。

やれば出来る。他人を変えるより自分が変われば手っ取り早いというのである。

たぶんこういう思想で携帯電話を世界に売ろうとしても売れないだろう。

イライラしそうな細かいキーさばきも鍛錬の末同化してらくらく使えるようになる、

イラついて青筋がピリッと切れて投げ付けるようなことはしなくなるという

ような思想が通用するかである。

ところで

入れ歯と糞塗れを比較してみる。

入れ歯は我慢すればなれるようになるが糞に塗れるということは有害だからあってはならないというだろう。何故有害なのかというと含有する窒素化合物や硫化化合物が毒だからであろう。じゃあ何故毒かと言うと、呼吸を阻害してしまうからである。

ただ臭いとか汚いとかばい菌が沸くというだけではなく、結果的に呼吸が「出来なくなるから有害である。合気道の技のように鍛錬すればそういう化合物と同化できるかというと一般的には出来ないとされる。

入れ歯の場合も、合わないと気が散ってイライラして結局まともに呼吸が出来なくなるのである。奥歯の詰め物でも0.5ミリずれるだけで力が一つの歯に集中して痛くて痛くてたまらないことがある。

それを我慢したり感じなくなるというのは鈍感に他ならない。

糞も入れ歯も変わらない。ましてや伴侶も糞と同じか?

入れ歯はそこそこあわないと自己同一は担保されない。イン歯―わたくし率100%じゃないと別の世界、になるのである。

こうやって入れ歯という鞭を与えつつも村上春樹という飴を与えられるのも奇妙である。

倍音を響かして身体が鳴って心地よい若きを謳歌したのち年を取って合わない入れ歯と格闘しなくてはいけないというのは、酷というかありとキリギリスというか先楽後苦とあべこべになる。

文壇で目の敵にされる傾向にある村上春樹を持ち上げられつつも、合わない入れ歯との格闘の末の同化というような進歩主義をも併置することによって文壇の意向に合わせられるというのは一種の世渡り上手といえるのか?

統合を唱えつつも後ろになってばたばたと分裂させるのがこの世界で生きていく要諦なんだろうとふと笑える。

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2008年3月21日 (金)

明日の質問事項

解剖学者の著作がベストセラーになることは日本特有ですか?外国でそういう事例がありますか?政治家でも実業家でも小説家でもなく解剖学者が何故突出するのですか?すべての活動は解剖学に還元されるのでしょうか?

私を含め少なからずの人々が自分探しをしている様子です。色々な解釈や定義によって自分が探せたとか探せなかったといわれますが、先生は、自分が探せるということについてどういう解釈や定義をお持ちで、結果的にご自身は自分を探せましたでしょうか?

バカの壁、死の壁と来ますと、バカは死ななきゃ治らない、という文句が連想され、丁度三部作になっていて、「治らないの壁」がまだ残っていると思われます。こう申し上げるのは野暮かもしれませんが、死の壁を書かれたのちその「不治の壁」が続いておりません。今後書かれる予定はありますか?

先生は喫煙をされるようですが、是非喫煙を止めて頂き、ドラッグに依存しなくても精神状態を維持できるような体験をしていただき、その結果を著作に書いていただけないでしょうか?

煙草が不健康だから止めるべきというわけではなく、酒でも薬でも煙草でも頼らないでうまく精神状態を維持できるようになりたいと考えていますのでそのお手本を示していただけませんか?

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2008年3月 1日 (土)

重版のご報告

私からはあまり想像できない礼儀正しさに遭遇した。

一本のか細い軌跡を見逃さぬよう、耳を澄ますことが大切ですね。

鋭く尖った生活や思索が最高の形をなして顕われたものと信じます。

と重版の報告にこれらが添えられる。

ああこうありたいなあ、と唸る。

では私も習って一席

いつも私の主観的体験を優しく受け止めてくださり、さりげなくオブラートに包み込み世間との折り合いを付けられる真摯なお姿に感服致しますこと甚だです。

ぎこちないしのりが悪くなっている。

こういうことをすらすら言えるように慣れていくことも必要なんですね。

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2008年2月22日 (金)

本当の素晴らしさを知るには

作家の素晴らしさを知るには、その著作を読むしかない、という見解があるが、違うだろう。

本当の素晴らしさを知るには、本人に直に出会って話をするしかない。

本で書いていることと、本人はまったく別物である。

本では、色々なしがらみがあるから建前程度のものである。しかし本物に出会うと、その主観的体験に触れることが出来る。著作と本人との主観的体験は違うのである。

作家は、他者を意識して書くから客観的になるよう苦労して書き連ねる。しかし虚しいかな本人の主観的体験からかけ離れる。客観を意識して書かれたものは理解不能である。

本人に出会って本音を聞かないと素晴らしさは判らない。

こういう機会はめったにない。またなくなられている場合は無理。

じゃあ、そのキャラクターに近いヒトを見出せばよい。漱石に似た人、三島由紀夫に似ている人を探し当てる。同じ物腰なら大体考えることは同じと見てよいだろう。

色々出会いの機会を作ってそういう人々と直に話すしかない。

本人の著作で本人の素晴らしさを判ろうなんて無理。

生に遭遇するとああそういうものかと理解が深まる。

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2008年2月20日 (水)

ネガティブなことを公にしない品格

公とか出会いの場では、色々な個人的な悩みやネガティブのことを言及することは品格がないと言うらしいが、違和感を覚えた。

何のために公があり出会いの場があるのか?

自分の悩みを打ち明けたり、他人の悩み事を救うためにあるのではないか?

このくそ忙しいときに、単になんでもないことをお話しするために高い金を払って時間を潰すような暇人はいない。

色々生きていくうえで困ったことがあるから、他人を利用したり救いを求めるのではないか。そのために公が存在する。税金を払っているのである。

個人的な悩みダメ、会社の愚痴ダメ、家族の悪口がダメ、というが、ではそれをどこに相談すればいいのか?

そういうことは、そういう苦悩を単に棚上げしたい人のための言及だろう。

そういうことをおおぴらにすることによって傷付くことがある。そっとしておくのが品格というらしいが、問題解決の先送りの奨励にしか見えない。

じゃあ誰かに相談したとしても得てして腐れ縁になって問題解決が遠のく傾向にある。

なんでも努力したり意識すればすべて解決するとは限らないとは言え、有限の時間しかないなかベストを尽くしたい。それでダメなら諦めも尽くし割り切れる。

そういうことをしないで、ただだらだら、取り留めのないことを空気を読んで話して、あら、楽しいかったざますね、と後味がいいものでしょうか?

公でネガティブなことを言わないというのは、かなり前からの慣習の様子だが、このおかげで、問題が先送りされて困ったことが多い。

自分の悩みを一人で抱え込んで一人で悩んでいたずらに時間が過ぎ去っていく。

品格を追求するとこういう落とし穴がある。

若い頃から悩みをうまく言語化してそれをより多くの人に打ち明けるようなノウハウを叩き込む必要がある。そうすればどんどん悩みが解消されていく機会や確率が増えて、よりよい人生になるだろう。

それぞれの年齢で色々悩みが出現してくるが、個人の悩みも会社の愚痴も家族の悪口もそんなに複雑で奥深いものなのか?

メタで捉えればおおよそパターン化する。

だから個人で悩まないで誰でも打ち明けたほうが良い。

自分独特の悩みだと思うからどつぼにはまるのではないか?

こうなのに、差し控えよというのだから、品格ものも30歳以下の人には保護者同伴の上読むことというような注意書きが必要だ。勝手に読ませないでちゃんとした年長者のフォローが必要だろう。