2008年6月25日 (水)

何でも肩書き

肩書きがあるとお金でも情報でも沢山自分のほうに寄ってきて、しかも自分のものに出来るんだね。

それなりの立場がないと折角の情報を手にしても金にならない。

もったいないから、そっちのほうに持っていくんだな。

そして厄介な責任は、下に押し付ける。

こういうのが、呪いと言うものか?

でも、意外にも、肩書きのある人だけではなく、若者にも行ってしまうなあ。

壁も背中もあったもんじゃない。

爺さんか若造。

そういうものは幼老思想っていうんだな。

立場なりの発言というものがあって、違っていると逃げていくんだな。

著作権法というのは、立場も考慮されるのか?

特許出しても、立場がある人に特許料が入るの?

そうだったら、そう言ってよ。

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2008年6月16日 (月)

掘り返した土をまた埋めるが、超ラッキー!か? けしからん!か?

仕事を請け負うとき、腰を低くして感謝をするが、その仕事が掘り返した土をまた埋めるようなものだったら、色々気分が分かれる。そういう仕事でも報酬を頂けるのなら超ラッキーということもあるだろうし、そういう仕事をさせやがってというような被害妄想になる場合がある。

超ラッキーといって感謝している分には問題ないのだが、被害者意識を持つときというのは、もっと必要な仕事があるだろう、それなのにそういうことばかりやりやがって、けしからん!ということになる。

必要だと思う仕事の種類がお互い同意できないとき、このようないさかいが起こる。多くの人にとって、まあ袋小路のように行き詰っていて、他も同じようだからいいじゃないか、とそういう仕事を企画するのだろうけど、いや違う、もっとやるべき仕事がある、と少数がいきがっても空しいことが多い。

それは、感覚的なものというか、感受性の違いから来る不幸だろう。見た目、そんな変化ないけど仕方がないから皆さんで遣りましょう、となる中、感覚が鋭くて、そういう不快な状況はまずいから解決しましょうといって仕事を創造してしまう。

感受性がなければ、必要性を感じず、掘り返し作業で始終して皆でハッピーとなるのだろうが、それについていけないと悲しいものがある。

感受性の同じ者同志でチームを組んで仕事をしたほうが良い。

だからうまくいかないんだな。

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2008年6月15日 (日)

小手先はしんどい

いろいろ自分の存在を示すために工夫を凝らしている。

これがかなりしんどい。

わざわざ新奇なことを考え出さないと済まされなくなっている。

そういう小手先の工夫を強いられるというのが今の時代の空気のように感じる。

一方、そういうことをしなくても、上前をはねるだけで充分食べていけるところもある。

既得権益というのは、あまり目立たないようになっている。

小手先はとにかくしんどい。いつまでもネタが出てくるわけではない。いずれ尽きてしまう。

折角出てきたネタも他との衝突によって使えないことが多くなることもある。

短期の利益を狙うと、どうしても決済実行者だけが潤うことになろう。

実行者だけが短期に儲けるのはいいが、長期的にコンスタントに続かない。

そういうものはポストの上に付かない限り儲からない。

下のものは、変だなあ、と思いつつも従わざるを得ない。

そうやって、結局は、自己責任で損をする羽目になる。

手当たり次第にポストが出来た所産だろう。

その存在意義が精査されないでぽんぽん作られた。

そこで、世代間の不公平がある。

それは、最初から相手にしないで、いずれ自分の主導権を握れるものを粛々と暖めるしかない。

それが、有効な時間の使い方だろう。

とはいいつつ、難しくなっている。

結局、変なものにお付き合いしないとダメ。

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2008年6月12日 (木)

交通事故と労働の等価性

労働とは本来、お客さんがいて、頭を下げて、仕事をさせて頂きます、という態度で臨むから、発注者と受注者は良好な関係になる。

これが本来の契約関係といえる。

しかし会社に入り、上司と部下という関係のもと仕事をすると、事情が変わる。

本来協力者とか仲間とかそういう意識があるのだが、加害者と被害者、になってしまう。

おかまをほられたのと同じである。

成果配分のときに、交通事故の加害者・被害者のようになる。

交通事故であれば、代理人を立てて示談交渉を行うが、会社では、本人同士でやらざるを得ないから、交通事故以上に過酷になる。

何故、そうなるのかというと、仕事の性質が多様にわたりそれぞれ甲乙付けられるからだろう。

上前をはねるようなコンスタントに成果が出る仕事があれば、一発アイディアで莫大な成果が出る場合もある。様々な事情でコンセプトが破綻していて効果がないのにやらされる場合もある。

一発当てたように見えてもすでにあったもののように扱われたり、前々から効果ないと判っているのにやらされてやっぱり仕事していないね、と見なされる。

更に、温度が異常に高くなったり異臭を発する什器を宛がわれたら、変なものを吸わされて頭がぼーっとして仕事の調子も上がらない。そういう中、泥のように働けといわれる。

理不尽な理由で格差が付けられてしまう。カフカ的な世界観なのである。

まさしく交通事故である。もうこの時点で、仲間とか共同作業という思いは吹っ飛び、加害者と被害者になってしまう。

そういうことを持ち出して直接示談交渉するのも辛いものがある。

どうすればいいのだ?

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2008年6月 2日 (月)

あくまでモデルの世界

漱石は、新聞も金儲けなら大学も金儲けでどちらも卑しい、といっていたらしいが、お金の問題というのは厄介で嫌だ。

出来る限り考えたくないが、考えないと仕事にならない。

お金を貰って初めて仕事になる。役に立ったと思っても貰わない限り自己満足である。

そういう厄介なことを考えるとどうしても感情的になる。

無論相手もそうだからまともな議論に成りえない。

このままお蔵入りになりそう。

お金のことになるとどうもまともに頭が働かなくなる。

だからまずはお金のことは忘れて、収益モデルに摩り替えればいいのかと思う。

もし仮にそれをお金に換算したら幾らになるかということを仮定するに留めるのである。

一気にお金が動くことをイメージするから双方話がまとまらなくなる。実際お金が動くか動かないかさておいて、モデルによって計算するとどうなるか?を試算してみればお互い冷静になれるはずである。いきなりその金額に対して遣せ、というのでは話にならない。

突き放して他人事のように、もしああいうことそういうことをお金に換算したらどうなりましょうか?

と畳み掛ける。その予測モデルが立てば充分である。

モデルに従って、現物をいただけるかどうか?というのは別問題である。

頂いて気分が良いものか?必ずしもいいものではなさそう。

じゃあお金は汚いから考えるのは止そう、というのでは仕事にならない。

むしろモデルを立ててから、さてどれくらいかが妥当かというのをもう一段階踏んで検討してみようと思う。その段階でやっぱり0ということもあろう。

今までお金のことを考えてこなかったが、こういう処理が出来て初めて一人前だろう。

引くわけには行かないのである。

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2008年5月30日 (金)

泥のように10年間働きましょう

例の、10年間は泥のように働いて、次の10年間はよく勉強して、という話題で沸騰しているのを覗いてみた。

そういう発想は、一昔の古いもので国際競争力をなくすなんて言われているが、やはり、組織の論理というか、何が何でも組織は生き残ろうとする力が強く働くから、古い考え方で充分じゃないかと思う。

最新の技術とか進歩が激しいと言われるが、用途は日常の事務手続きと情報活用であるから、古い考え方で、着々とキャリアを積み重ねていってもいいのだろう。

 また別の考え方をして、

ITというのは、多少人口が膨れ上がった団塊ジュニアのためのジョブクリエーションであろう。

今の若い人々は、人口が少ない分、昔からある枯れた利権が確固たる伝統産業で食べていけるから、古い考え方で充分じゃないか。1960年代に戻るんだよね。

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2008年5月25日 (日)

マルクスの功罪

少し考えてみたが、マルクスは、経済活動を優しくモデル化して、そういうところから不具合や人間疎外を浮き彫りにして、じゃあ革命が必要だ、という風に私は理解した。

表向き、ロシアで革命が起きて100年も経たないうちに破綻したということが知られている。

日本でも、学生時代、マルクス主義がブームになって、革命ごっこをして社会に収まっていった世代がいたが、今現在の日本というのは、それを引きずっているように感じる。

人間疎外を浮き彫りにした点は、功だが、経済の仕組みを可視化したおかげで却って悪用されたのではないかと思うと、罪な話である。

何でも判りやすく仕組みを解明すると、悪用する連中が出てくるというのは、困った話。

彼らが、学生時代、人間疎外に怒りを込めて団結して暴れまわって、社会に出て好き放題ポストを作って、自分の意のまま誰にも侵害されない蛸壺的世界を形成して、それを受け継いだ若い世代が、有用性への疑問、発展性のなさ、虚しさ、信念の変化による先行き不透明、タブー増加による言論統制、とますます人間疎外に陥っている。

人間疎外を追及すると他の人が人間疎外する結末になっている。

彼らは人間疎外を、他者と交わることと解釈して、他者に干渉されない蛸壺世界を自由に作って疎外解消したつもりになった。自分たちさえ持ちこたえれば、あとはどうでも良いという刹那世界を創造している。

そういう誤解が罪になっている。

しかも若い世代は、団結しないから、ますます蛸壺世界で孤独感に苛まれ袋小路に陥っているとみると、マルクス主義も色々な効果を催して厄介になっていることは確かなのではないか?

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2008年5月13日 (火)

被害意識は、呪いか?

自分が被った被害について声高々に主張して世の中を騒がす輩が増えてきたという。品物を買って品質が悪いだの、学校の教師に向かってうちの子供になんてことしてくれるの、というクレーマーが多くはびこり現場では困っているらしい。

そういうクレーマーを統合失調という病人に仕立て、ああするとそう見られるよ、という自制を促すような言説でもって、打開しようという動きもある。

被害意識ばかりいうと大人気ないと言われる。当事者意識がないとか、他人任せとか、未熟だとか言われるが、果たしてそうか?

被害というのは、自分の不幸が明らかに自分以外の原因でもたらされたとき意識される。

無論、天変地異に関しては、諦めが付くが、人為的なことに対しては、やはりきちんと被害意識を持ってクレームを付けていかないと損する。

だいたい何か自分にとって不都合なことが起こると、自分が悪いとか努力が足りないとか自己責任と思い込むように誘導されてきたのではないかと考えられる。

あくまで自分が悪いと思っていてくれれば、安泰と考えているのだろう。

いろいろ不幸な原因を考えていくと、なかなか言語化出来ない魑魅魍魎として通常の感覚を超えた第6感に頼って初めて判明する。やっぱりそうだったのか?

そういうものは、得てして、ばれにくいからやっても平気だろうといって原因は放置される。それだけではなく、わざとそういう原因を創造することもある。

これには、怒り心頭である。

6感によって感じるのだから、いわば病気の一種となるのだろうが、こういうことを是正していかないと、日本はガラパコス現象に苛まれる。

世界の人というのは、そういう感覚が鋭いのに、日本人は、独特な鈍感さを進化させガラパコス諸島のイグアナやゾウガメのような独特の進化を遂げてしまっている。

そういう鈍感力が世界に通用するのか?

だから、被害者意識というのは強くもって、世界感覚を取り戻さないと、やっていけない。